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春の夜に幕末の風が吹く…かもしれない

吉田松陰の生まれ故郷である萩市と下田市は姉妹都市関係にあります。
萩といったら伊藤博文、高杉晋作など幕末のスター揃いの出身地で、なぜ下田なんかと姉妹都市になるんだと思ってしまう方もいるかもしれませんが、彼らスター軍団を教育した吉田松陰が米国への密航を試みて失敗した地が「下田」という縁で下田市と萩市は姉妹都市提携しているのです。
まぁ、普通に考えると、わざわざ失敗した場所と姉妹都市提携を結ばなくてもいいんじゃないかと思うかもしれませんね。
しかし、簡単にいうと、吉田松陰は下田で密航は失敗したその後、故郷である萩に送り返され、松下村塾という私塾を開き、幕末の英傑たちを薫陶し育てた、という流れがあります。
下田での松陰の失敗が「きっかけ」となって、後の総理大臣になる方ですとか、そういった方々を育てることができたわけです。
そのまま松陰がアメリカに行っていたら、こうはならなかったのかもしれない。
さておき、吉田松陰が下田に来たとき、どのようなルートで、どのくらい時間をかけたのか興味が沸いたので図書館で本を借りて少しだけ読んでみました。

以下、吉田松陰の行程をご覧ください。
江戸(東京)から下田まで、歩いて何日かかったのでしょうか?
吉田松陰の下田潜入記

旧暦 新暦 泊地名 できごと
 3/5 4/2 江戸 発
夜、赤羽橋で合流した金子重之助と発つ
 3/6 4/3 保土ヶ谷
(横浜市保土ヶ谷区)8里半の夜道を歩き、明け方宿に着く
 3/6 4/3 横浜村
投夷書を作成、佐久間象山を訪ね松代藩営中に泊まる、1里余

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旧暦と新暦を並べるだけでも急に季節感を現代と比べることができて、ある意味新鮮さを帯びてくるような感じがします。
そうか、松蔭が弟子と小舟に乗って黒船に乗り込もうとしたのが新暦では4月24日なのか、ということだけで急に松蔭がリアルに迫ってきます。
弁天島にある絵を見ると、寒そうな荒波を越えて、みたいな感じで描かれているのでなんとなく苦難さを感じるのですが、4月後半、ゴールデンウィークにさしかかり、なんて季節ならなら海に入ってもそんなに寒くなくないか?と思っちゃいますね。
もちろん夜ならきっと寒いはずでしょうけれど、旧暦を新暦に置き換えてみるだけでもなんとなく味わいが違ってきます。
そして、年表を眺めると、江戸から下田まで実際に歩いて何日かかったのかもリアルに置き換えることができます。
吉田松陰の気分を味わうために、来年の4月24日か25日に、弁天島に行ってみるのも悪くない、と思えてくる。
不審者に思われるかもしれないですが、弁天島に夜中行ったら、なんとなく吉田松陰の気持ちになれるのかもしれない。

 そういった、リアルを体験するという意味での史跡の味わい方も、ありかもしれません。
春の下田港と黒船 class= 下田港は都会のようにとてつもなく広範囲を埋め立てられていませんから、弁天島から下田の海を望む風景そのものは、現代でも幕末と大きく変わらないと思います(弁天島周辺は昔の絵葉書を見ると砂浜のようで全然違いますけれど)。
松蔭もペリーもハリスも、同じ海の景色、島の配置を見てたんだなぁと思いにふけるだけでもちょっとだけいい時間を過ごせると思います。
自然風景としての史跡を下田で味わう、というのはいかがでしょうか。

とかいいながら、ある日の夜、まどが浜海遊公園をそんな想像をしながらランニングしてみたんです。
意識して、頭の中で周りの電灯や家の明かりを消すと、真っ暗ですね。
現代は明かりが多い。
こんな田舎でも明るい。
灯りのない幕末を想像してみると、怖い。
たぶんめちゃくちゃ真っ暗の中、松陰は小舟を漕ぎ出して黒船に向かったのでしょう。
遠くに黒船の灯りなんかが見えて、そこを目指したんでしょうか。
 
松陰が見た下田湾の夜は、どんなものだったのだろうか。

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