
僕は少なくともつい最近まで知りませんでした。
子供のころ気になって母親に聞いても忘れたというし母子手帳も残っていないので分かりませんでしたが、そこまで重要なことでもないし気にしたことも忘れていました。
ところが先日、祖父の遺品を整理していましたら昭和54年、僕が生まれた年の手帳が出てきました。
祖父は僕と同じ市役所の職員だったので、議会の日程やら会議の日程だけが簡素に記されたもので、特に感情の入った文はなく、無味なものでしたが、少し気になって自分が生まれた12月の頁をめくっていきました。
12月31日、僕の誕生日には「9:50出生」、とだけ記されていました。
そうか、僕は9時50分生まれかと分かったんですね。
たったそれだけのことなのに、なぜか涙が出てきてしまうという非常に情けない45歳の盆の出来事でした。
僕がこのコラムを書くきっかけになった祖父、土橋一徳は歴史好きなおじいさんとして市内ではそれなりに知られた人ではあったと思うのですが、市役所の職員であったことは意外と知られていないのかもしれない。
まぁ、40年以上前に退職しているので、当たり前ではありますが、昨年亡くなり、新盆を過ぎた記念として今回はそんな祖父の話を少しさせてください。
うちの祖父は相当な記録魔だったのだと思います。
その日の天気を手帳に書いたり色々なことをメモしたりファイルしてあります。
また、祖父の記録魔ぶりを見せつけられたのが、彼が下田町役場に入庁してから退職するまでの辞令書がすべて保管されていたということ。
昭和21年に入庁してから昭和55年に退職するまでの配属先や給料がわかります。
僕はというと、辞令書は保管しない、というかすぐに捨ててしまう。
ふつうはどなたも保管しているらしいですけどね。

広報しもだの縮刷版を覗くと今では考えられませんが、職員の来歴が掲載されているのです。
昭和36年11月25日の下田町報の「自治功労者表彰さる」という記事を抜粋します。
「昭和二十一年一月就職以来、土木水道業務を一貫して担当し町の建設事業については何一つ知らないものはないと謂う通暁者であります。
課長不在の水道課をきりまわす若手実力者の一人です。」

祖父は下田市における水道事業の礎を築いた人間といっても過言ではありません。
今では当たり前に張り巡らされている水道。
大学も出ていない祖父は自分で勉強、研究し市内の野山をめぐり、現在の落合浄水場を水源と定めて建設しました。
詳しくは僕が広報担当だったとき平成27年3月号広報しもだで特集を組んでいるのでもし時間がありましたらご覧ください。
広報担当3年目でどうせ異動だろう(結果5年いたのですが)という気持ちもあって組んだものでしたが思い切って書いてよかったと今でも思います。
一つだけここで祖父自慢を書かせてもらうと、現在の水道料金の徴収方法は祖父が編み出し、その後ほかの都市でもその方法を採用することとなったことです。
詳しくは知りませんが、祖父は最後はあんまり良くない形で退職したらしいです。
仕事人間だった、と思われる祖父が昭和56年3月に職を辞して多少なりとも暗くなっていたとき1歳過ぎの幼児だった僕がいたのでちょうどよい暇つぶしになったのでしょう。
とても可愛がられた。
僕は祖父の話を聞くのも好きだったし色々な史跡に連れて行ってもらいました。
友達と遊ぶより祖父と遊ぶほうが本当は楽しかった。
親友が偶然祖父と孫だった、というのが一番適当な言葉かもしれません(向こうはそんなこと思っていないかも)。
僕は高校を卒業して米国に留学し、地元に帰るつもりはあんまりなかったのですが、縁あって下田市役所の試験を受けて合格通知を受け取ったとき、珍しく祖父が紅潮させて喜んでいたのを思い出します。
本当は少しだけ、祖父と同じ土俵に上がるのが嫌だったことと、留学途中で帰国したので、お金がたまったらまた行きたいという想いがあって、入庁を躊躇しました。
でもうれしそうな顔と今まで育ててもらった恩を考えて、とりあえず祖父が死ぬまでやろうと思っていたらかなり長生きしましたね。
もう市役所に入って22年になります。
僕が入庁した22年前はまだ祖父に鍛えられたという方々が在職されていて「土橋さんには入った途端、韮山高校の教科書を渡されてとりあえず勉強をしろと言われて面食らった」だとか「災害や工事で仕事が夜中になっても土橋さんは連絡を随時入れてくれてあの人はいつ寝てるのか分からなかった」とか僕の知らない側面を教えてくださった。
通夜のときもたくさんの方々に来ていただいて「市役所人生で一番厳しい人だった」と口調柔らか、愛情がこもったお言葉をいただいた。
22年前、僕の歓迎会を開催していただいたとき、ある課長さんにビールを注ぎに回ったら「西川君は土橋さんのようにならなきゃ」と言われて「はぁ…」なんて不安げに答えたのを今でも覚えています。
無理だよと思ったし、22年たった今では無理だったと痛感しています。
よく祖父には「血がどんどん薄れていく」と冗談交じりに言われました。
どうも数学が苦手で中学生のときに祖父に教えてもらっても泣いてばかりで全然頭に数式が入らなかった。
今でもどうも数字が苦手で単純な計算も不安なときがあります。
二桁の暗算すらできない。
祖父は今でいう技術職だったので数学が常に頭にくっついていたのでしょう。
なんで解けないのかが分からないというような表情で僕を見ていたことをよく覚えています。
とはいえ祖父のおかげで歴史は好きです。
子供のころから年表を見るのが好きだった。
祖父はいつのころから歴史好きなったのか。
昭和30年3月29日号の下田町報に下田年代抄録というのが掲載されていて、


「歴史に興味を持っている土木課土橋主任に寄稿して戴きましたのが年代抄録」と書いてあります。
うちの祖父は大正14年生まれなので、昭和がそのまま年齢となり(三島由紀夫と一緒)昭和30年ですから30歳のときには仕事のかたわら、歴史に興味を持っていたようです。
しかしまぁ、こんな年表を書くくらいですから歴史に興味を持っているレベルではない気がしますけどね。
ある意味異能者だったんだなぁと思います。
仕事は祖父のようにできませんが、こうやって少しは下田の歴史について発表させていただく機会をいただけていることは僕が死んだあと、もし祖父に会えるのであれば、ほんの少しだけ自慢できるのかもしれない。
ジョジョの奇妙な冒険という漫画が大好き、とプロフィールに書いていますが、この漫画は血縁とか血統、絆、縁が重要な要素なんですね。
温厚な祖父だったから何も言わなかったけれど、市役所を円満に退職できなかったことは心残りであったと思うので、ほんの少しでも魂のようなものを継承していければと思います。
今、このコラムは祖父のデスクで書いています。
歴史の資料で埋もれているこの部屋、この部屋にあるそれら資料はこのコラムが世の中出ているころには市史編纂室にいる。
ちょっと悲しいけれど、僕が保管しているよりはしかるべきところで保管したほうが良いと考え、市史編纂室にお譲りする方向でいます。
ちょっとどころじゃないや。
結構悲しい。