平成10年に祖父と祖父の親友間瀬音三郎(山城屋)さんが出版した豆陽中学校第44回卒業生の同窓会の文集で、みなさん戦争の思い出を中心に語られていて結構面白い。
祖父は戦争の思い出ではなく、自分がどうして郷土史が趣味になったのかを書いていた。
ただ、僕が子供のころ、祖父は戦争の話をよくしてくれました。
祖父、土橋一徳は大正14年、1925年10月25日生まれです。
旧制の豆陽中学校を卒業すると下田を離れ、日本光学工業、現在のニコンに勤め、その後徴兵され、名古屋の連隊に配属されたと聞きました。
徴兵されたとなれば、普通は、というのも変ですが、結構なしごきを受けたのではないかと想像してしまいます。
ところが本人は
「俺は殴られることはなかった」
と言っていました。
教育勅語だったか軍人勅諭だったか、このあたりは僕の記憶が曖昧なのですが、上官が兵士に暗誦させ、覚えていない者を一人ずつ殴っていたそうなんですね。
祖父は全部暗記していたので、それを上官も知っていたのか、祖父のところだけ順番を飛ばされ、結局、殴られることはなかったというのです。
小銃を焼いてしまったけれど怒られず、新しい銃に交換してもらった、という話も祖父は何度も僕にしました。
空襲の際、自分の小銃を置いたまま防空壕へ逃げてしまい、ひと段落して戻ってみると、小銃は真っ黒に焼けて壊れていたそうです。
大切な武器を持たずに逃げ、しかもそれを駄目にしてしまったのですから、周りの兵士たちも、これはさすがに殴られるだろうと思ったらしい。
ところが、上官は祖父を殴るのではなく、バラバラに分解された小銃をいきなり祖父に渡し、
「目の前で組み立ててみろ」
と言ったそうなんです。
祖父はそれをすぐに組み立てた。
すると怒られることもなく、代わりにその新しい小銃をもらったというのです。
「力、俺はちゃんと覚えていたから殴られなかったんだ。」
本当にそんなにうまい話があるのかと少し疑いたくもなります。
しかしながらピンチをチャンスに変える、どこか童話じみたこの話は、今でも僕の心に深く残っています。
ただ、これって結構難しいんですよね。
実際に覚えるって。
深く残っているだけで実践はできないまま不惑を過ぎてしまったことは、本当に死んだら祖父に謝らなくちゃならない。
ほかには、飛行機に乗って機銃を操作していたとき、膝のあたりを撃たれて、白い腱だか骨だかが見えたという話も聞きました。
そして空襲の際に、爆弾が落ちてきたとき耳を塞ぐのが少し遅れ、左の鼓膜が破れてしまったとも言っていました。
爆弾が落ちてくるときには両手でしっかりと耳を塞ぐんだということもきつく教えられましたが、これは幸いにも実践することは今現在ない。
なので祖父は老人だから耳が遠かったのではなくて、片方の耳だけ正常だったわけですが、祖母から小言を言われるたびに、
「俺はつんぼだから聞こえない」
などと言って、聞こえないふりをしていました。
本当に聞こえていなかったのかもしれませんが、僕にはどうもそうは見えなかった。
終戦の日、19歳だった祖父
終戦の日、昭和20年8月15日、祖父はまだ19歳でした。
あらためて計算してみると、ずいぶん若い。
ニコンに勤めて、徴兵され、濃密な時間を過ごし、祖父は名古屋から下田へ戻りました。
汽車はものすごい混雑して、窓から無理やり入るようにして乗り継いだ、と聞いています。
下田まで電車は通っていませんでしたから、伊東あたりからはバスで乗り継いで下田まで来たのだと思います。
ようやく下田へ戻ってきたというのに、祖父はまっすぐうちには帰らず、八幡神社の前で相撲だったか何だったか、何かの興行をしていて、その見物に夢中になってしまったそうなんですね。
すると、そこで偶然、自分の父親に会った。
「帰ってきたなら先に家へ来いよ」
と叱られたそうです。
僕はこの話がなんとなく好きです。
考えてみれば、今のように携帯電話がある時代ではありません。
息子がいつ帰ってくるのか、死んでいるのか家族にも分からなかったでしょう。
でもなんとなく、久しぶりの港町下田の風景に見入ってしまったのは、本当になんとなく納得できるんですね。
戦後、下田に残った理由
その祖父は、翌昭和21年1月1日、下田町役場に勤め始めます。
祖父が残した一番古い辞令がこの日付で、月給は50円でした。
終戦からまだ半年もたっていません。
日本光学に勤めていたころには、実家へ仕送りをすると、その金額の多さに家族が驚いたという話も何度も聞きました(本当かどうかは分からないが)。
それなのにどうして祖父は戦後、もう一度外へ出ず、そのまま下田に残ったのでしょう。
祖父は七人兄弟の長男でしたから、家族のことがあったのかもしれないし、とにかく仕事に就きたかっただけなのかもしれません。
もう理由を聞くことはできないけれど、考えてみれば偶然や運命の連続だったのかもしれないですね。
僕自身もなぜ下田に戻ってきて市役所に勤めたのかなんて説明できない。


