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八十年前、下田の少年たち

前回ご紹介した豆陽中学校第44回卒業生による『四有朋友』という文集を読んでいくと、八十年ほど前の祖父と祖父の同級生たち少年が何を考え、どんな毎日を送っていたのかが、まざまざと伝わってきます。
昭和16年8月、祖父を含めた豆陽中学校の四年生全員は伊豆大島へ出かけています。
文集には「修学旅行代わりに大島野外演習」とあります。
昭和16年12月には日米開戦ですから日中との戦争の最中、混沌とした世の中だったのではないかと思ってしまいます。
ところが、時代は違えどもやはり十代の少年たちがそこにいました。
宿では何人かが調子に乗って屋根の上で小便をして、大目玉を食ったと。
伊豆大島では屋根を伝う雨水を集めて飲み水にしていたと書かれており、それは怒られて当然です。
当時の官公立の旧制中学校には、大正14年制定の「陸軍現役将校学校配属令」により、学校教練を担当する陸軍の現役将校が配属されていました。
豆陽中学校に配属された将校には「インキン」というあだ名が付いていました。
一人だけがそう呼んでいたのではなく、別の人の文章にも、ごく当たり前のように「あのインキン大尉が」などと出てきます。
なぜそんなあだ名だったのかは分かりませんが、あまり良い印象ではなかったのでしょうね。
修学旅行でははしゃぎ、先生にあだ名をつけて愚痴り合う。
なんか、根底にあるものは今も昔もあまり変わらないような気がしますね。

小銃を手に、東部連合演習へ



ですが、翌年の昭和17年10月20日から22日までの三日間、豆陽中の五年生全員は「東部連合演習」に参加しています。
文集では、軍の指令と指導のもとで行われた、韮山中や田方農業との合同戦闘訓練だったと記録されています。
出発前には銃の手入れをし、三八式銃や騎兵銃、銃剣などを受け取り、当日は朝6時30分、バス三台に分乗して下田を出発。
修善寺で駿豆鉄道に乗り換え、三島へ向かいました。
修善寺から駿豆鉄道で三島へ。
こういう当時の交通網のリアルさが分かるのも面白いですよね。
翌日の演習では空砲を渡され、南軍と北軍に分かれて行動しています。
豆陽中の生徒たちは南軍側に入り、相手方と遭遇して戦闘訓練を行った。
文集には「あわや白兵戦」というところで戦闘中止になった、とあります。
17歳の少年たちが小銃を持ち、敵味方に分かれて戦闘訓練をしている。
今と変わらない少年時代はあったけれど、今と決定的に違う80年前のリアルがあります。


「黒こげの小銃」につながる記憶



前回「黒こげの小銃」で、祖父が軍隊で小銃を焼いてしまい、上官から分解された銃を渡され、「目の前で組み立ててみろ」と言われ、それをすぐ組み立てたという話を書きました。
その時は、祖父が機械に強かったからなのだろうか、くらいに考えていました。
でも、祖父は軍隊へ入って初めて小銃を触ったわけではなく、十代のころから学校で銃を扱い、手入れをし、実際に銃を持って演習に参加していた。
そういえば、豆陽中時代、射撃の訓練成績は良かった、俺の先祖は雑賀衆の鉄砲撃ちだったから、と言ってましたっけ。


下田の女の子たちは、横浜の工場へ



下田の女学生たちの旋盤工場風景


ふと気になりつつ、豆陽中学校は今でいう男子校だから女子のことは載っていないだろうなぁと斜め読みしていたところ、その答えも、思いがけず同じ文集の中にありました。
祖父の親友だった間瀬音三郎さんは、豆陽中を卒業後、上京して三井精機工業に勤めていました。
戦時中、職場の課長から突然、
「オイ、間瀬、下田高女(下田高等女学校のこと)って知っているか」
と聞かれたそうです。
間瀬さんは、
「ハイ、私の町の高女です」
と答えています。
下田高女の生徒たちが、学徒動員で横浜の金沢八景の工場に来ているというのです。
間瀬さんはその場へ出向きました。
そこで見たのは、顔見知りの下田の女の子たちでした。
仕事だったので、決して素性を明かしてはならず、話しかけることも禁じられていたようです。
「三尺旋盤の前で顔見知りの女の子が油だらけになって旋盤を操作して居りました。」
そして、そのあとにさらりとこうあります。
「此処にいた女の子の一人は今は、土橋一徳君の奥さんになって居ます。」


文集の中に見つけた祖母の姿



ビックリするとともに、こういう発見は脳汁が出るというか嬉しくなりますね。
祖母は昭和3年、1928年4月13日生まれで、下田高等女学校に通っていました。
戦争が激化した頃、祖母は16、17歳でした。
下田高女の女の子たちは勤労動員で横浜まで行き、旋盤を動かしていたわけです。
そうか、ばあちゃんは16、17歳くらいのころ、下田を離れて神奈川にいて、油だらけになって旋盤を回していたのか。
全ての女の子たちがそうだったとは限らないけれど、伊豆半島の南端の若者も戦争に駆り出されていたのか。
そう思うと、八十年前の遠い昔の戦争が、ほんの少しこちらへ引っ張られてくるような気がします。
簡単に表にすると、
年 祖父 祖母 時代
昭和16年
1941年
16歳
大島野外教練
13歳
下田高女
太平洋戦争開戦
昭和17年
1942年
17歳
東部連合演習
14歳 戦時体制が進む
昭和19年
1944年
18歳
日本光学工業勤務、その後徴兵
16歳
勤労動員
学徒勤労動員本格化
昭和20年
1945年
19歳 17歳 終戦


一人一人の記憶から、当時の下田が見えてくる



『四有朋友』は、同級生たちがそれぞれ自分の学生時代やその後の人生を振り返って書いた、ごく個人的な文集です。
僕は社会の授業で、学徒出陣や学徒動員、「欲しがりません、勝つまでは」という言葉くらいは習いました。
でも、それはどこか教科書の中の出来事でした。
それが、この文集を読んでいると少し違って見えてきます。
昭和17年、祖父たち下田をはじめ賀茂地域出身である豆陽中の五年生は銃を手に東部連合演習へ参加し、下田からバスで修善寺へ、そこから駿豆鉄道に乗って三島へ向かっています。
一方、戦争が激化した頃の祖母に目を移せば、まだ16、17歳くらいのころ横浜の金沢八景で油だらけになって旋盤を回していた。
ばあちゃんはなんとなく、まだ子供で下田にいたのかと思っていましたが、そういえば、防空壕へ逃げたとそういう話をしてくれたのを思い出し、それは横浜での出来事だったのですね。
一人一人の記憶から、当時の下田が見えてくる。
小さなものから大きな時代の流れを見る、貴重な体験をこの文集は僕に与えてくれました。
太平洋戦争は遠い昔で実感が湧かないものですが、祖父と祖母の実体験と聞くとなんとなく現実味を帯びてくる。
とはいえ、もう当時大人だった世代の方々からお話を聞くことは難しくなっています。
『四有朋友』のような埋もれてしまうような歴史を発見できたのはこの夏の幸せなできごとでした。


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