オノマトペは日本語の特色といえるほど種類が多いそうです。
英語では350種ほどですが、日本語には1,200種、三倍以上に及ぶそうです。
フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語も英語と同等に少ない。
よって、オノマトペは欧米諸国や中国と比べたとき、日本語の特色となります。
各言語それぞれが対になっていて、一つの単語に必ず対になる単語があるものだと勘違いしてしまいがちになりますが、オノマトペを例にとっても日本語は1,200種あるのに英語に350種しかないのですから、翻訳するときには言葉だけではなく、会話の流れや、話している人物の背景を頭に叩き込んでおかないと不自然に感じてしまうこともあるでしょう。
「男が悔しくてしくしく泣いている」
「男が悔しくておいおい泣いている」
どちらも間違いではないですが、男なら「おいおい」、「しくしく」はどちらからといえば女性の泣く様を表しているかと思います。
「おいおい」は動的、「しくしく」は静的な語感がなんとなくあると思うのですがいかがでしょうか。
暑くて空気がジメジメしているは英語でSticky(スティッキー)あたりですかね。
「ベタベタ」の方がしっくりくるかもしれません。
オノマトペの場合、片方は350種類、もう一方は1,200種あるということは、どちら側の翻訳家にとっても、器量や経験、知識がとても大事になってくるでしょう。
幕末当時、開国の地下田でもどこかあやふやな、言葉のパズルゲームが行われていたのかもしれませんね。
江戸時代、外交手段はオランダ語と中国語が主流で、日本国家としての英語の精度というか習熟度はまだ低かったのではないか、というようなお話をさせていただきました。
ペリー艦隊が下田に来航した際、幕府側の通訳として活躍したのが堀達之助です。
代々長崎でオランダ語通訳を勤める一族で、達之介は難破した船に乗っていたアメリカ人の乗組員から英語を教わったとされます。
1853年、最初にペリーが日本訪問した際、艦隊に船で横づけして、堀が「I can speak Dutch!!(俺はオランダ語を話せるぞ!)」と叫んで船に上げてもらい、その後はオランダ語を主として交渉を進めていったそうです。
僕は「I can speak Dutch!!」がなんとなく好きですね。
最初の掴みはOK、的な雰囲気で最初は英語で隙を突いておいて、中に入ったら得意なオランダ語で攻めるという、通訳界隈の大先輩として尊敬します。
どの本で読んだのか忘れてしまったのですが、当時のオランダ語通訳が話すオランダ語は、どうも古めかしくて変だとアメリカ人が言っているんですね。
ここがまた日本人らしさ爆発の面白いところで、長崎にはオランダ商館があって生で会話できるのに、オランダ通訳の一族は江戸初期の古い教本を先祖代々ずっと聖典のように大切に扱って勉強に励んでいたらしいのです。
当然200年以上前のものですから言葉遣いは古いのは当然ですよね。
相手の発する音から学び取るのではなく、文書から吸収するという勉強法もなんとなく、現在の日本人にも通じるところがあって、何かの折に研究したら面白いかもしれません。
堀達之介は下田条約締結時にも下田に条約交渉に従事し、大活躍しています。
締結後も下田で仕事するように命じられ、今年の夏にご紹介したアレクサンダー・ハバーシャムとも交流しています。
堀に他の外国人はどうなのかと聞いてみたり、温泉の質や、やはり興味津々だったのか混浴についてもチクチク尋ねています。
「堀は我々が言うことを理解しているようだが、それをどの程度奉行に伝えるだろうか・・・」というような記述もあって、堀との間には信頼関係があるが、幕府は事なかれ主義で動きが鈍いことを見抜いているようです。
僕はある程度、堀の気持ちが分かって、「もうちょっと遠くまで遊びに行きたい」なんて言われたけど上司に絶対ダメ、怒らない程度にやんわりと断れと命じられるに決まっているさとウジウジしていたかもしれない。
ここからはネット調べなので、不正確な部分もあるかと思いますが、堀はその後、ドイツの商人に、アメリカやロシアと同じように条約を締結してほしいと依頼されたのに対して独断で処理しようとしたとして牢屋に捕まります。
その際、吉田松陰と文通をしていたというんですね。
それが本当であれば、文通の内容は下田のことがたくさん出たんじゃないかと、前向きに推測するわけです。
堀達之介を通じてペリー、ハバーシャム、吉田松陰の3人のつながりを下田というワードを通じて見つけることができて何か嬉しい秋の空、なにかウキウキしてきたなぁ。
もっと何か見つかるかもしれない。
ワクワクしてきたぜ。