僕はこれらのまちの人々と触れ合う様子こそ国際交流の原点であり、下田の誇るべきものなのだと信じています。
アメリカ兵が酔っ払っている様子の絵も好きです。

もちろん戦国時代にはポルトガル人が、もっと昔には中国や朝鮮から多くの外国人が日本に来ていたことは知っています。
江戸時代、鎖国をしていたとはいえ、長崎にはオランダ商館があり、そこでも交流があったことは分かります。
けれど、170年前に下田が「公に外国人が自由に闊歩できたまち」であったことは、他のまちが真似しようにも真似できない史実だと思うのです。
ところで、みなさんは気づいていたかどうか分かりませんが、最近僕はひとつの発見をしました。
当時のアメリカ兵に、女性はいなかったのです。
少し調べてみると、現代のアメリカでも、登録対象となるのは男性のみで、女性は志願という形で入隊する、という仕組みのようです。
黒船祭では女性の兵士をよく見かけるので、あまり気にもかけなかったのですが。
僕は写真が趣味で、目にするものを構図で見てしまう癖があります。
もし僕が幕末の絵師だったら、女性の兵士も必ず絵にしたと思うんですよね。
だから幕末の我々の先祖は、アメリカ人女性を見たことがなかったのだ、という仮説を立てて一人で喜んでいました。
はたして、アメリカ人女性が日本に訪れたのはいつだったのだろうか。
一般人のことなんて記録に残らないだろうから調べようがないけれど、初来日を性別で考えるなんて我ながら良い視点だ、と一人ニヤニヤしつつ、祖父が生きていればすぐ答えてくれたんだろうなぁとぼんやりと考えていたのです。
ところが、「下田市史 別編 幕末開港」を何気なしにめくっていたところ「アメリカ女性の下田滞在」という見出しが偶然目に止まりました。
下田開港の翌年、安政二年(1855)にアメリカ商船カロライン・E・フート号が関わったできごとが書かれています。
ロシアのプチャーチン提督が、戸田村で建造された船だけでは兵員を収容できず、フート号を借り上げて兵員輸送に使ったという話です。
「フート号には、もともとアメリカ人の乗客がいて、女性3名、子ども2名を含む11名が、下田に滞在することになった。条約上、一般のアメリカ人が下田に逗留するのは本来許されない。しかし日本側は、ロシア人の速やかな国外退去を優先し、特例として見逃した。外国人女性が日本に滞在することは、長崎のオランダ人に対しても許されなかった異例の事態だった」と書いてあり、一人快哉を上げたのです。
当時のアメリカ兵に女性はいなかったという見立ては当たっていたのですが、僕の想像を超えて嬉しかったのは、一般アメリカ女性が初めて日本の地に降り立った場所が、下田だったということです。
フート号の乗客は玉泉寺に滞在し、初めて見るアメリカ人女性や子どもに、下田の人は強い関心を抱いたといいます。
特に、22歳の商人の若妻が評判になり、奉行所の役人はスケッチまで描いて「実にめつらしき事なり、世の中も変化する時ハあるもの也けり」と記し、川路聖謨も「亜人の美女」として、わざわざ見物に訪れたほどだった、とあります。
やっぱりスケッチはあったんですね。全然知らなかった。
画像を生成してもらいましたがこんな様子なんでしょうかね?

偶然ですが、こういう良いめぐりあわせのようなものはもう少しPRしても良いかもしれません。
フート号にはジョン万次郎と同じ漁船で遭難した虎右衛門という人も乗船していたそうです。
すでにハワイで生活の基盤を築いていたため、虎右衛門は久しぶりに故郷日本を訪れてみたいという思いで乗っていただけで日本に戻ることはなく再度ハワイに帰ったようですが、虎右衛門はたぶん(とらうえもん)と読むのでしょう。
けれど、僕の頭の中では青いネコ型ロボットにどうしても脳内変換されてしまうのは何故でしょうか。