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図らずも、かなりの国際都市だった下田

前回、アメリカ女性が初めて日本の地に降り立った場所が下田だったということをお話しました。
彼女らが滞在していた時期は安政の大地震が起こった直後で、多くのロシア兵も下田に滞在しており、下田はいきなり化学反応的に国際的な町へと変容しました。
アメリカ人たちが乗っていた商船カロライン・フート号は、ロシア兵が帰国するために貸し出されることとなりましたが、全員を運べるほどの大きさはなく、残りのロシア兵とアメリカ商人の家族は玉泉寺周辺に滞在していたようです。

玉泉寺

玉泉寺



これは以前紹介したハバーシャムの滞在時期とも重なり、彼の滞在記には一般のアメリカ人やロシア兵の様子も書かれています。

アメリカ人女性やハバーシャムが見た地震後の下田の町は、ペリー一行が見た町並みとはずいぶん違っていたのではないかと思います。
では、ペリーは当時の下田をどのように見ていたのでしょうか。
『ペリー遠征記』には次のように記されています。
「街路は直角に交差し、その大部分は簡単な木の門で守られ、その門の親柱の上には町の名が記されてあり、門の中に番人の屯所がある」「街路幅は約6メートルで、一部には砕石が敷かれ、一部分には舗装されている。
下田は進歩した開化の様相を呈していて、この町の建設者が清潔と健康に留意した点は、我々が誇りとする合衆国の進歩した清潔と健康さよりはるかに進んでいる」
かなり好意的な評価であったことが分かります。
また住民については「役人・兵士その他諸大名や高官の家来が不釣り合いに多いこと、下層階級は強制的にひどく働かねばならないようにされているが、住民は相当に富んでいる様子で乞食を見ることはほとんどない。
住民は日本人独特の丁重さと控えめであるが快活な態度を持っている。
あるいは旺盛な好奇心を持ち、町を歩くアメリカ人に群がり、衣服を調べ、ほとんど子どものような熱心さと喜びをもってボタンや剣や華やかな衣服をつまみ、その名を訪ねるのが常だった」とあります。
アメリカと交渉していたのですから役人が多いのは仕方がないと思いますが、港町独特の雰囲気として、外部の人たちを受け入れやすいという特性が下田にはあるのではないでしょうか。

現在の下田港

現在の下田港



一般的には、当時外国人が来ると門戸を閉めて隠れていたのではないかと思ってしまいがちですが、この連載を通じてお伝えしたいのは、下田ではかなりおおらかに人々の交流が行われていたということです。
とはいえ、ペリーは地震前、プチャーチンは地震前後、ハリスは復興後の下田を見ていたわけで、三者三様の下田観があったことは確実でしょう。
プチャーチンは冬になると強い西風が吹くことに疑問を抱き、風のたびに船の向きをつなぎ変えなければならないのは面倒だから、別の港を開港場に指定してほしいと幕府に求めました。
またハリスは通商の立場から、下田港は規模が小さく、軍艦一隻でさえ十分に食料や物資を供給できないことを不満に思っていたようです。
確かに季節によって風向きが変わることなどは、ペリー(春)とプチャーチン(秋・冬)では滞在した季節が違いますから、感想が分かれるのも当然でしょう。
また軍人であるペリーの考え方と、商人であるハリスの視点の違いが現れるのも自然なことだと思います。

地震が起きたのは1854年11月。津波によって町の戸数850戸のうち813戸が全壊し、無事だったのは18戸のみでした。
人口3,907人のうち溺死者は85人でした。
日中の地震だったため町の人々や役人は山に逃げ、死者数は比較的少なく抑えられたのが不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

図説下田市史を読みながら今回は書いているのですが、6日後には幕府から米や救済金が届けられたとあります。
江戸から届けられたのであれば、当時としてはかなり素早い対応だったのではないでしょうか。
以前、吉田松陰について調べた際、江戸から下田まで徒歩で向かうと最低でもそれくらいの日数がかかっていたと記憶しています。
幕府にはさまざまな思惑があったのでしょうが、地震後も下田を開港場から外すことなく復興に力を注いでいます。
本郷や大賀茂、吉佐美、柿崎に関所を設け、開港場としての体制整備も同時に進められていきました。

ハリスは新しくてきれいな下田の町を見ていたのではないでしょうか。
4,000人弱の町に多くの政府高官や外国人が滞在したとなれば、経済的に見ればバブル的な勢いもあったのではないかと想像するのですね。
ペリー艦隊が1,500人程度、プチャーチン率いるロシア兵が500人程度だったことを考え、他国の人々も出入りしていたとなると、幕府の役人も合わせれば、どんぶり勘定で町民と同程度の人々が一時的に生活していたということになります。

現在は多くの外国人観光客が訪れる下田

現在は多くの外国人観光客が訪れる下田


ある意味、儲かったのでしょう。
下田は江戸初期までは番所(海の関所)が置かれていましたが、経済の発展とともに番所は浦賀に移され、経済的にかなりの打撃を受けます。
どうしようもなかったところに幕末、下田はまた外的要因によって偶然開港場となり、当時の下田はかなり活気づいたと思います。
しかし、開港場であったのはわずか6年のみで、開港場は横浜に移ります。
なんだか悲しくなりますが、なんでも初めては記憶に残りやすくて良いものです。
人類初の宇宙飛行をした人はガガーリンだとすぐに分かりますが、2番目に宇宙飛行した人は、さて誰でしょうか。

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