1853年、浦賀に現れた黒船を見て、幕府は大パニックに陥った・・・。
教科書でおなじみのこの光景ですが、実は幕府にとってこの事態は『想定内』だったのかもしれません。
実はその約60年前の1792年、日本人漂流者を乗せたロシア船が通商を求めてやってきていました。
幕府はこれを拒否、その12年後の1804年に再来し、幕府は「外交」というものを意識せざるを得なくなります。
その頃の外交上の公用文書はフランス語で書かれていたため、幕府の人間は誰も読むことができず、しかたなくオランダ商館のオランダ人にお願いしていたような状況でした。

これではさすがにまずいので、幕府は長崎にいた蘭通詞(オランダ語の通訳者)にフランス語の学習を命じました。
それまではオランダ語以外の言語は基本的に禁じられていたので(中国語は違うかと思いますが)、ここが西洋の言葉のみならず、文化や文明を学ぶ機会が設けられたターニングポイントだったと思います。
なぜロシアだけが日本に接触できたのかを考えてみると、当時の世界情勢が大きく関係していることが分かります。
この時期、ヨーロッパではフランス革命が起こり、各国は国内問題への対応に追われていました。
また、アメリカでもジョージ・ワシントンが大統領に就任したばかりで、国づくりの最中でした。
こうした状況の中で、他の国々が極東の日本にまで手を伸ばす余裕はほとんどありませんでした。
一方、ロシアはシベリアを東へ拡大しており、日本に地理的に最も近い位置にあったため、接触することができたのです。
ロシアが開国を求めてきてから日本が開国するまでの約60年間、世界はめまぐるしく変わっていきました。
日本でも外国を意識せざるを得ない事件が何度も起き、幕府は交渉を進めるため英語も学んでいきました。
ペリー来航の一世代前から外国というものが念頭にあったのですから、意外と学習する時間があったようにも感じられます。

外国語は、交渉のためだけに学ばれたものではありません。
造船などの最新技術を学ぶためという側面も多分にありました。
最初に幕府から外国語を学べと命じられた人たちは、とても大変だったと思います。
その長崎の蘭通詞一族の一人が、下田開港の際に活躍した堀達之介です。
アメリカ人ハバーシャムの日記に「堀は十分我々の言っていることを理解できるようだが、下田奉行に正確に伝えているかどうかは分からない」といったことが書かれています。
「分からない」という皮肉を含んだ表現からも、堀との間では意思疎通があり、お互い友情も芽生えたことでしょうが、その彼の理解度のわりに幕府への要求がなかなか思うように通らず、辟易してしまった部分も多かったのかもしれません。
来月、下田は黒船祭で賑わいます。
多国籍な人々が笑顔でスマートフォンの翻訳アプリを使い、軽やかに言葉の壁を越えていく。
そんな光景を、交渉の最前線に立った達之介が見たら、一体どんな顔をするでしょうか。

170年後も変わらず国際的な下田を見て喜んでくれるかもしれない。
そして、きっとスマホをほしがるに違いない。
教科書でおなじみのこの光景ですが、実は幕府にとってこの事態は『想定内』だったのかもしれません。
実はその約60年前の1792年、日本人漂流者を乗せたロシア船が通商を求めてやってきていました。
幕府はこれを拒否、その12年後の1804年に再来し、幕府は「外交」というものを意識せざるを得なくなります。
その頃の外交上の公用文書はフランス語で書かれていたため、幕府の人間は誰も読むことができず、しかたなくオランダ商館のオランダ人にお願いしていたような状況でした。

これではさすがにまずいので、幕府は長崎にいた蘭通詞(オランダ語の通訳者)にフランス語の学習を命じました。
それまではオランダ語以外の言語は基本的に禁じられていたので(中国語は違うかと思いますが)、ここが西洋の言葉のみならず、文化や文明を学ぶ機会が設けられたターニングポイントだったと思います。
なぜロシアだけが日本に接触できたのかを考えてみると、当時の世界情勢が大きく関係していることが分かります。
この時期、ヨーロッパではフランス革命が起こり、各国は国内問題への対応に追われていました。
また、アメリカでもジョージ・ワシントンが大統領に就任したばかりで、国づくりの最中でした。
こうした状況の中で、他の国々が極東の日本にまで手を伸ばす余裕はほとんどありませんでした。
一方、ロシアはシベリアを東へ拡大しており、日本に地理的に最も近い位置にあったため、接触することができたのです。
ロシアが開国を求めてきてから日本が開国するまでの約60年間、世界はめまぐるしく変わっていきました。
日本でも外国を意識せざるを得ない事件が何度も起き、幕府は交渉を進めるため英語も学んでいきました。
ペリー来航の一世代前から外国というものが念頭にあったのですから、意外と学習する時間があったようにも感じられます。

外国語は、交渉のためだけに学ばれたものではありません。
造船などの最新技術を学ぶためという側面も多分にありました。
最初に幕府から外国語を学べと命じられた人たちは、とても大変だったと思います。
その長崎の蘭通詞一族の一人が、下田開港の際に活躍した堀達之介です。
アメリカ人ハバーシャムの日記に「堀は十分我々の言っていることを理解できるようだが、下田奉行に正確に伝えているかどうかは分からない」といったことが書かれています。
「分からない」という皮肉を含んだ表現からも、堀との間では意思疎通があり、お互い友情も芽生えたことでしょうが、その彼の理解度のわりに幕府への要求がなかなか思うように通らず、辟易してしまった部分も多かったのかもしれません。
来月、下田は黒船祭で賑わいます。
多国籍な人々が笑顔でスマートフォンの翻訳アプリを使い、軽やかに言葉の壁を越えていく。
そんな光景を、交渉の最前線に立った達之介が見たら、一体どんな顔をするでしょうか。

170年後も変わらず国際的な下田を見て喜んでくれるかもしれない。
そして、きっとスマホをほしがるに違いない。