先日、とある外国の方に、「日本を色々巡ってみたけれど、下田に住むことに決めた」と言われ、嬉しくなって理由を尋ねてみたら、キラキラとした眼で「下田は海も山も綺麗だし、都会と違ってとても落ち着いているからね」と返事がきました。
良い意味でも悪い意味でも、日常的に「下田」という環境に慣れ過ぎている僕には分からない感覚でした。
生まれも育ちも下田の僕は都会の景観に「憧れ」を抱き、人工物に囲まれて満員電車に揉まれてみたいとさえ思っていたことがあります。
学生の頃、住んでいた都会の雑踏のゴミゴミした匂いは嫌いではなかった。
その「憧れ」の源泉はなんだったのか、いまだに判然としない。
若さ故の熱病のようなものだったのだろうか。
そんな若さゆえの熱病、のようなものを持って吉田松陰は下田にやってきたのかもしれません。
連載開始から松陰の下田での動きを紹介してきました。
ラストは下田の人々が見た松陰の姿はどのようなものであったのか少しだけ紹介させてください。
松陰が下田で宿泊した宿(現在の下田屋旅館とされる)の息子が記した彼の風貌は「満面うすき痘痕(あばた)バラバラと点じ、目は細く光りてまなじりはきりりと上につり、鼻梁隆起してなんとなく凸様の顔面をなし候、両頬は下殺し、顎はチリチリしたる薄き青ひげ乱れ生じ、髪は大束の野郎に結び申し候・・・」とあります。
ところどころ現代の日本語ではわかりにくい部分があるかと思いますが、イケメンではないであろうということはさすがに分かります。(一つ付け加えておきますと江戸時代は天然痘が流行っていてあばたがあるのは当時の日本人にとっては普通、といいますかそれほど珍しくはなかったようです。幕末、外国人が日本人を見てあばたと近眼の多さに驚いた、そうです。)
そして、下田見物に来たと言っているのに部屋でごろごろして全然出てこなかったようで、すぐに宿の主人に怪しまれています。
やはり出入りの盛んな港町とはいえ、行動が一般と違うと目立つもの。
密航の相談でもしていたのでしょうか。
黒船が下田湾内に浮かんでいる最中、あからさまに怪しい侍二人組を見て、宿の主人は気分がそわそわしたと思います。
そう。当たり前ながら松陰が下田に来た理由は黒船が来航していたからです。
日米和親条約が締結され下田が開港場となり、細かいルールを決めるためペリー一行や幕府の重役達が集まっていたのですから下田はもっともスペシャルな日々を送っていたのです。
怪しいヤツが自分の宿に泊まっていれば、正直早く出ていって欲しいというのが心情でしょう。
実際松陰はペリーが了仙寺で会見を行った後、警備が厳しくなって宿を追い出されています。
追い出されたその日は蓮台寺に宿泊していますが、その後は密航失敗まで柿崎の弁天島で寝ていたりするわけです。
弁天島で寝泊まりしていたら、もう不審者確定ですよ。
しかも、結局小舟をパクって米国船に向かうのですから。
午前2時頃にちょうど良い舟(松蔭的にね)を見つけ、いざ漕ぎ出そうとしたら櫓を固定する杭がなくて、ふんどしで縛り付け、それでもダメだったから帯で縛り付けてなんとか米国船に向かった、と書いてあります。
ようやく旗艦であるポーハタン号に乗りこむが日本語が分かるウイリアムスに追い返され・・・とだいたいの松蔭関係の本に書いてあってさらりと流されていますが、
「ふんどしと帯がない」ということは、ほぼ、すっぽんぽんなんですよね。
前はさすがに隠したでしょうけれど、僕だってたぶん上着だけ着てる人が目の前に来て、上司に会わせろと言われたらかなり高確率で断ります。
米国船に乗り付けた舟は流されてしまったので、米側の舟に乗せられて松陰は帰されてしまい、失敗してしまってはもう仕方が無いと妙に潔く、柿崎村の名主に自首します。
でもやはり気になるのは、上着のみのすっぽんぽんが自首してきたら僕が名主だったらかなり焦りますね。
なるべく穏便に済ませたかったのか下田番所の役人達はなるべく逃げろとそのままなかったことにしようとしました。
すっぽんぽんがオレを捕まえてくれと言ってきたって、そりゃ逃がしますよ。
しかしながら松陰は「海外に行こうとした罪は重い」と変に覚悟を決めたまま逃げないわけです。
その前に小舟を盗んだのも相当悪いと思いますけどね。
僕が舟の持ち主だったら、かなり怒ると思います。
その後松陰は役人に江戸まで連行されますが、どうしても僕が気になるのは帯とふんどしはしていたのか、というところですね。
どうもそのあたりに記述はありませんが、僕とすると、柿崎の優しい名主さんが松陰に帯とふんどしをあげた、と思いたい。
30年という短い生涯の中で松陰が最も情熱的で思い出深かったであろう瞬間が下田滞在であったのかもしれません。
話は変わりますが、この6月、下田にはデジタルノマドの方々が集まり、様々な交流が行われ、僕も少しだけ参加しました。
様々な国の方々とお話をさせていただき、下田の魅力を再発見した思いがします。
人との交流って言語じゃなくて「心」なんだなって感じました。
お互い第一言語が英語ではなくてカタコトで話していると、より、相手の気持ちに寄り添う感じがあるんですよね。
別の日にはウズベキスタン人の一行とお会いする機会がありました。
中央アジアで古くはシルクロードの中継地点として栄えた国です。
国名は聞いたことがあるけれど、という方も多いかもしれません。
8名ほどの方々だったと記憶していますが、アジア系やヨーロッパ系など様々な方々でした。
今回、下田に滞在していたデジタルノマドの方々は、「自分自身を自由に変えたい」だとか「社会の仕組みそのものの変化への憧れ」といった類の熱病にかかっているのかもしれません。
松陰の「若さゆえの熱病」はなんだったのか?
自分なりに考えてみました。
それは、その時代の日本全体がかかった「日本をどうにかしないといけない」という病で、彼は最も重篤にその病にかかってしまった人間の一人だったのかもれしません。
そして、僕がかかった「若さゆえの熱病」というものを自分に問い直してみると「アメリカ=留学=かっこいい」という非常に下衆な考えであったと思います。
しかしながら、他の文化に生で触れ、4年弱の間一度も日本に戻らないで生活したことは自分にとって大きな糧であったと今になれば思います。
松陰が命を懸けて行こうとした米国にひょいひょいと軽い気持ちで行ってしまった僕。
すっぽんぽんになりながらも、異国を夢見たこの下田という同じ地に世界中の人が集う現代を伝えてあげたい。