気がつけば花の町、我が町下田  -花と観光の歴史-

2011年 12月 25日

気がつけば花の町、我が町下田  -花と観光の歴史-
爪木崎の水仙

咲き誇る爪木崎の水仙

伊豆では季節ごとに花のイベントも各地で開催されます。全国各地でもさまざまなイベントがあり花博なども盛大に行われる昨今ですが、下田では年末から新年にかけて約1ヶ月間水仙まつりが開催されます。
今回で第46回…ふと46回目というのが気になり始まりはどんなだったのだろうと調べてみました。

戦前から下田は観光地

水上飛行機

下田の飛行場は海の上

戦後、高度成長期において四季折々の自然に恵まれた日本では花を見に行く旅行などあまり魅力がなかったのではないでしょうか。そんな時代に花で観光って思いついた先人はすごいですね。

大正から昭和初期にかけての不況の中、現代のように交通整備もされてなく風待ち港ではありましたが陸の孤島のようだった下田。
下田街道でも少し触れましたが東海道から南伊豆にくるには峠越えしか手段がありませんでした。
名曲「天城越え」でも歌われているように九十九折、隠れ径、天城隋道・・・険しい道だったようです。

昭和5年の東京-下田-清水間の水上飛行機定期就航、東京湾汽船が東京-伊豆大島-下田の航路に力を入れ宣伝してくれたこともあり多くの方々が訪れてくれるようになりその頃に「伊豆の踊り子」「唐人お吉」の撮影が下田で行われ、下田は観光によってその道を求めはじめました。これが昭和初期の観光ブームの始まりです。
海に恵まれた立地を活かし三井生物研究所(現御用邸)や東京文理科大学臨海実験所(現筑波大学臨海センター)ができ人の行き来も増え昭和9年には第1回黒船際が開催されるようになり観光をさらに盛り上げたようです。
しかし時代背景もあり観光ブームは長く続かなかったようです、戦争が激しくなり旅行どころではなくなったのでしょう。

陸の孤島・下田に陸路が通る

東京ー下田ー清水 飛行機が定期就航!

終戦後、復興のため誰もが頑張り高度成長時代に突入です。
昭和28年伊東-下田を結ぶ伊豆東海岸を通る「縄地有料道路」が完成、翌年12月に完全開通。初めての東京方面と直結する陸路がひらけました。

昭和36年12月9日、明治以来下田町民が待ち望んでいたといわれる鉄道「伊豆急線」が開通東京の奥座敷と呼ばれていた熱海からさらに下田まで電車が来たことにより南豆の観光は一気に躍進し第2次観光ブームの到来です。

退職後に「暇だから下田公園の草取りでもしよう」→日本一のあじさい群生地へ

下田公園のガクアジサイ

海と山、多くの自然に恵まれた下田。
自然を活かしお客さんを楽しませる方法を模索する中で黒船ホテルの先々代・山本氏(当時観光協会会長)、元東海汽船・藤井氏、町議・佐野氏が中心となり立ち上げた「下田花いっぱい運動」が今の下田の花の観光の始まりです。

きっかけは藤井氏が退職後「暇だから下田公園の草取りでもしよう」だったそうです。それを見た佐野氏が一人じゃ危ないからと「下田公園植樹会」なるものを発案、賛同をつのり花いっぱい運動につながったようです。

ペリーロードの柳とあじさい

ペリーロードの柳とあじさい

最初はボサだった山を整備し中学生の卒業記念植樹をやったり桜、梅などを植えたりしましたが上手くいかず、発足して3年目に元からあった少しの紫陽花の群生に目をつけ整備に着手しました。

限られた予算の中で紫陽花の苗を買い移植したわけですが、当時ガク紫陽花などの日本紫陽花の苗は高価で多くは買えずにいたところ「西洋紫陽花なら出資する」と旅館組合の申し出があり西洋紫陽花が中心となりました。
そのために一部の人からは苦言を言われたようです。
しかしこの紫陽花公園構想は市も協賛してくれ役所の職員も植樹を手伝い今の姿になりました。

水仙の上でスキー!?

水仙で草スキー

水仙で草スキー

爪木崎には元からの野水仙が群生し斜面の群生は草スキーとして地元の子供たちの絶好の遊び場だったそうです。
それをもっと活用しようと寄付を集め観光協会と協力し、野水仙の球根を集めてもらいそれを買い取り、須崎の住民と旅館の従業員が植える。それを2~3年続け水仙まつりが始まったのです。

彼らの構想には「下田花暦」「花の寺運動」なるものもありました。

次回は下田の花暦と守り続けるココロのことです。

この記事を書いた人

むさし

駅前の国道から一筋街中に入った商店街の中ほどでうどんやを営んでおります、お年寄りは「新田のうどんや」と呼びますがもちろんお蕎麦も打っております。下田に生まれ、途中関西方面を放浪してまた下田に帰ってきました(すべて昭和の時代のこと)引きこもりぎみな今日この頃、徘徊といわれない程度に街を探検してみたいと思案中。
他にもこんな記事を書いています。

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