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どっちもどっち



アレクサンダー・ハバーシャムの日記にある朝の散歩の出来事が掲載されています。
これを少しだけ推理するように読んでいくと、様々な発見があり、幕末の下田にタイムスリップしたような気分になります。
当時、基本的に外国人は上陸して寝泊まりすることが許されておらず、彼らは船で寝ていました(船を失ったロシア人達などは柿崎の玉泉寺周辺に宿泊していたと思われる)。
ある朝、彼と乗組員2人は「日の出の時刻に下田のはずれの上陸場に漕いでいった」、とあります。
彼らが下田に滞在していたのは1855年の6月と推定されるので、日の出の時刻は4時30分過ぎ。
そして外国人の上陸が許可されていたのは弁天の鼻黒(現在のペリー上陸記念碑のあるあたり)、柿崎の磯崎、そして福浦の3か所でした。

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「下田のはずれの上陸場」はどこか



「下田のはずれの上陸場」というと柿崎か福浦の2か所に絞ることができ、柿崎は以前紹介したように大勢の子どもたちが出迎えてくれたことが、散歩の記事の前に出てきます。
そう考えると、この「ある朝の散歩」の上陸地点は福浦だったのではないかと推測できます。

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このように、今は埋め立てられていて殺風景ですが、祖父によればこの福浦だけは遺構が埋まっていて、掘り起こせば復元できることになっているようです。
ここは、吉田松陰がペリー艦隊の船に乗り込もうとして失敗し、送り返された地でもあります。
そのことを示す碑が、説明板の奥にひっそりと佇んでいます。

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上陸許可地点が鼻黒、磯崎、福浦の3か所だけでしたから、吉田松陰がこの場所に送り返されたのは、ある意味では至極当然だったといえるでしょう。


「スパイハウス」と呼ばれた見張り小屋



話をハバーシャムに戻します。
彼が上陸して最初に発見したのは見張り小屋だと書かれています。
監視用の見張り小屋となると頑丈なつくりをしていそうなものですが、彼の日記には「竹で作った小さな小屋」とあります。
ハバーシャムはこれを「スパイハウス」と呼び、自分たちが上陸すると1、2人の役人が監視するのを非常に嫌がっていたようです。
ペリーの日本遠征記にも同様のことが書かれていて、須崎、外浦、白浜、中村、本郷、立野、下田を見物する際には必ず尾行され、町民と外国人が触れ合うことを禁ずる幕府の方針が打ち出されていました。
とはいえ、ハバーシャムが下田に来た頃には多少はゆるくなっていたことが、彼の日記からも分かります。


キック事件



自分たちがただ散歩に行くだけなのに役人に尾行されるのが非常に苛立たしかったのか、この散歩の日、彼の友人は言うことを聞かない役人に「キック」を浴びせ退散させてしまいます。
それで役人たちは逃げ帰った、とさらりと書いてあります。

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まぁ、暴力は良くないですよ。
しかしなんというか、一触即発の雰囲気は少し和らいでいるのが分かるエピソードではあるかと思います。
蹴っ飛ばそうものなら刀で斬られてもおかしくなさそうですし、下田開港以降の歴史では「生麦事件」など実際に外国人が切り殺されることもあったわけですが、なんとなく下田には独特のあたたかい雰囲気があったのか、大問題になっていないのが下田らしいのかもしれません。


ハバーシャムの日記やペリー遠征記の表現を見ると、やはり日本を下に見ている感じは拭えないとは思います。
しかし、日本側も「夷狄(いてき)」だと下に見て攘夷の論調もありましたから、「どっちもどっち」なんですよね。
お互い顔が見えないときはおっかなびっくりで、どこか切ない馬鹿にし合いもあったかもしれません。
しかし、下田では以前紹介した別のエピソードのように、外国人と町民のなんとなくほんわかした雰囲気があるような気がします。
これこそ下田市が他の都市には出せない、脈々と受け継がれてきた気質のような気がします。


今年も黒船祭で様々なほんわかエピソードが増えるといいなぁと思いながら、僕は堀達之助の気分で仕事をしようかと思います。



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