平成最後の年末、谷津山に登ったことで僕は低山病をわずらってしまった。 前回の谷津山はまさかの自動車登山で思いも掛けず楽ちんで、美味しくて楽しい尾根歩きを堪能出来た。 尾根って最高だ! これがいけなかったのだろう。 低山のことが「何か気になる」から「なんだか好きかもしれない」に変わったのだ。 この感覚、遠い昔に味わった気がする。 ・・・そうだまさに恋心だ。
平島部長から告げられた次の山は相ノ山。 その名前を聞いた時いつもの様にどの山の事か分からなかった(情けない)。 だが、きんめ団地(※.1)のあるその山は下田湾を挟んで我が家の真正面にあるから見ない日は無いというお馴染みさんだったのだ。 いまこの瞬間もパソコン画面から数センチ目を上げると相ノ山が僕を見つめている。(※.2)
(※.1)きんめ団地・・・きんめ船(昔はかつお船)の漁師が建てた家が多いことから地元ではきんめ団地と呼ばれる。 (※.2)窓の外の木の右が相ノ山。
こんなに近くに毎日見ているのにその名前も知らなかったとは。。 それからと言うもの、相ノ山がどうにも気になって仕方がない。 双眼鏡で覗いたり、衛星写真で覗いたり。ちょっとしたストーカーを働いてしまった。 やはり、これはまさしく恋心なのだ。 人って面白い。今まで何も感じなかったものがある日突然特別になるのだ。 ”What a difference a day makes ”って恋唄があったけど、こんな気持なんだね。
当日が待ち遠しい。。こんなことって初めてだ。 一人でアタックしてみようかとも考えた。 いやいや、俺はもう40過ぎのおっさんなのだ。中学生じゃない。 がっついちゃ駄目だ。
そしてやっとその当日がやってきた。
今回の相ノ山攻略は正面からではなく、裏の大賀茂側から登っていくことになった。 山に裏も表もあるのかいな?って思う人、そんなこと気にしちゃいけない。 何ごとも「自分から見てどうか?」ってところが肝心だ。 だから富士山はもちろん静岡側が表で、そして伊豆から眺めるのが一番美しいのである。 富士山の後頭部ばかり見ている山梨県民はどうかしちゃってる。
大賀茂から吉佐美へ抜ける田んぼ道の途中を曲がり今日のアタックを開始する。
平島部長の説明では道らしい道は無いとのこと、色々と調べたらしいが見つからなかったそう。 それでも頂上はすぐそこにあるはずなのだから余裕のよっちゃんだ。
途中まで山道を歩き、GPSと睨めっこしていた部長がこの辺から上がりましょうと指示した。 んんん・・・・、ただの斜面である。
つつ、、辛い。。
つつつつ・・辛い~!! 足場が悪く、一歩踏み出すごとに山肌がボロボロと崩れてくる。 木の根っこやツルにしがみついて自分の体を持ち上げる。
五分も経たないうちに腿がぷるぷる状態。 背中は汗でびっしょり。
一歩間違えればどこまでも滑り落ちてしまう恐怖感。 僕を頑なに拒絶しようとする山。 あんなに恋焦がれた相ノ山が憎くなってくる。
まるでエリートサラリーマンが神保町駅の階段を上るかのように涼しい顔してるアケシンさん。 その東京的ポーカーフェイスが憎い! (アケシンさん、ちょっとはハ~ハ~しろや!)
と同時に僕の情けのないヘタレ顔がもっと憎い!!
もう駄目じゃ~。 ちきしょ~!部長に騙された~! 身も心も疲れ果てた。 この恋はここが引き際だと僕は悟った。
ヒーヒー泣きながら登ったら目の前に鉄塔が現れた。 この電波塔の下が山頂である。
お決まりの三角点。 荒んだ僕の心には感動も何もあったものじゃ無い。 ただの棒と石ころだ。
山の北側は視界がひらけて気持ちがいいが、悔しいことに太平洋側は木が生い茂り眺めがない。
俺たちは山オトコ。 男って不器用だ。 俺たちのゴツゴツした手。 山の上で細かな料理は向かない。 したがって今日の低山ランチは飯盒に激辛ラーメンをぶっこんでそのまま豪快に食べる。
俺たちは山オトコ。 男って不器用だ。 でも夢がなければ男じゃない。 昔、子どものお弁当にタコさんウインナーが入っていた。 食べてみたかったぜ。。 でも嫁は必要分しか作らなかったからつまみ食いは出来なかった。 ここでこっそりと果たせなかった夢を叶えたい。
僕のランボーナイフで切り込みを入れてゴエモン風呂ににどぼん。 まさしく茹でダコに。
あんよが開いたら、黒ごまでおメメを付けてあげる。 おメメが付くと途端に愛らしく見えてくるから不思議でちゅね。 可愛すぎてヨチヨチ言葉になってしまうが、数分後に僕に咀嚼されてしまうタコさん。
ナムルと半熟卵に韓国海苔をトッピング。 タコさんの赤が映えるぜ!
そして豪快に喰う!・・・・、だが飯盒から直ラーは非常に食べづらいことがわかった。 山男の唇がヤケドしてしまうのだ。 でも美味いことにかわりはない。 40歳の俺たちは「進撃の巨人」よろしくニヤニヤとタコさんウインナーを貪ったのである。
アケシンさんがフルーツ香るフレーバーティーとドリップコーヒーを淹れてくれる。 このフレーバーティーと言うものを初めて飲んだのだが、酸味が爽やかで美味い。 失恋で荒れた僕の心を癒やしてくれる。
そして平島部長はというと、山の上で一人黙々と卵と生クリームを湯煎している!! 小さなホイッパーまで持参しちゃってる。 ホットプリンを作ると言うのだ。
最後にグラニュー糖を撒き散らす。 山オトコらしくガスバーナーの荒業も飛び出した(危険ですので真似しちゃ駄目です)。
湯気立つ熱々のプリン! これが実に美味い!!! 御世辞でなく本当に驚きの美味さなのだ。 熱いので甘みが強くて卵の香りがする。 火が入り過ぎたのか少しザラッとした舌触りが逆に食べ応えを高めてくれる。 ハフハフしながら、苦いドリップコーヒーをグビリッ。うっまー! プリンは冷たいものより熱いモノこそが美味いことを初めて知ったのである。 前回の火鍋しゃぶしゃぶと言い、今回のホットプリンと言い、僕の人生の中で最高得点を2つも叩き出すこの平島と言う徳島県出身の輩。 このままでは僕の美味しいものリストが彼色に塗り替えられてしまう。 本当に怖ろしい男だ。
美味しい低山ランチを堪能したら身体と心の疲れも癒えてきた。 帰りは下田側へ下ってみる。
木々の向こうに下田湾が広がるが一望出来ないのがもどかしい。
電波塔へのアクセスの為だろう、階段が整備されている。 住宅のある太陽苑方面へとおりて、そこから大賀茂のスタート地点へと向かってもう一度山の中へ。
アップダウンは緩いのだが、意外に山が深い。 道はもちろん、、無い! 終いには平島部長のGPSも受信できなくなってしまう!
こんなにも町に近いのに、驚くほど山が深いことに恐怖感も湧いてくる。 数十メートル先に民家の屋根が見えたりするのだが、草木に遮られてとても行けそうにない。 無事に帰りつけるのかと言う疑念が一瞬よぎる。どころではなく、行ったり来たりしている。 一人じゃ不安で泣いていたかもしれない。
でも低山部には頼もしい平島部長、クールなアケシンさんがいる。 そしてみんなオッサンだ。経験的に何とかなるし、何とかできるっていう自信もあるのだ。 おじさんて悪くない。
その後、スタート地点へたどり着きこの日の登山を終えた。 思いがけない急勾配、そしてGPSも届かない山の深さにビビる自分。。 山に安易に手を出したら手痛い目にあい、山に対するほのかな恋心が見事に打ち砕かれた登山だった。
暦ってなんだ? ケチケチ明治政府と新暦の関係
2月は一年で最も寒い時期とよく言われますね. 2019年は2月4日が立春でした.下田に最も近い気象庁の観測地点は石廊崎です.
石廊崎の1981年から2010年までの30年間の平均最低気温,平均最高気温をみると 1月21日-25日が5.2度,10.5度 1月26日-31日が5.0度,10.4度 2月1日-5日が5.0度,10.5度 2月6日-10日が5.3度,10.9度 となっていて,だいたい立春を境に気温が底をうち,上昇に転じます.
立春や春分などは二十四節気と呼ばれる中国で2000年以上前に決められたものですが,それはさておき,今回は旧暦について考えてみたいと思います. 旧暦のことを月の満ち欠けを基にした太陰暦だと思っている人がいますが,実は日本で江戸時代から明治5年まで使われていたのは,太陰太陽暦です.イスラム圏では現在も季節のズレを調整しない,純粋な太陰暦を使っています.
太陰太陽暦は月の満ち欠けを基準としつつも,太陽の運行をもとに補正を加えるものです. 月の満ち欠けは約29.5日周期です. 29.5日x12ヶ月 = 354日となり,太陽の一年=約365.25日と比較すると1年で11日,季節がズレてしまいます. そのまま8年も経つと,88日=約3ヶ月も季節がズレてしまい,農業を主におこなっていた地域では”使えない”暦となってしまいます. 昔のイスラム圏(現在のイスラム圏は世界中に広がっています)は,私の想像ですが,農業をするにしても年間を通してそれほど寒暖の差がなく季節があまりないので,純粋太陰暦で特に問題が起きなかったと思います.
では,太陰太陽暦はどのように補正を行うのでしょうか. 旧暦の各月は新月の日を1日としました. また,旧暦では春分があるのは2月,夏至は5月,秋分は8月,冬至は11月と決めていました. 特に冬至が重要で,冬至のある月の直前の新月を11月1日と決め,そこから1年を割り振りました. しかし365日の間には新月が12.38回,つまり毎年平均12.38ヶ月あることになるので,3年で約37ヶ月となり,太陽の36ヶ月とズレが生じます. それを解消するのが閏月(うるうつき,じゅんげつ)です.現在の暦の閏年には2月29日がありますが,太陰太陽暦では閏月を入れて,約3年に1度,太陽との誤差を補正していました. 11日x3年分なので33日.閏月という1ヶ月を入れることで,月と太陽の運行の補正を行っていました.正確には19年の間に7回,閏月を加えていました. 2018年,2019年には閏月はなく,2020年には旧暦4月のあとに閏4月が入ります. 4月と決まっているわけではなく,2017年は6月でした. その理由はここで書くには複雑すぎるので,ご興味のある方は調べてみてください.
明治5年に太陰太陽暦(旧暦)から現在の太陽暦=グレゴリオ暦(新暦)に改暦されたのですが,その理由が面白いので,この話で今回は終わりにしたいと思います. 旧暦明治5年11月9日(新暦12月9日),政府は突然「旧暦明治5年12月3日を,新暦明治6年1月1日とする」と発表しました. 旧暦では,明治6年は閏月があるので,1年が13ヶ月あることになっていました. 官吏,いまで言う国家公務員に支払う給料も13回になってしまいます. 新暦にすることで給料が12回で済み,さらに旧暦明治5年12月は2日までしかないので,給料は払わなくていいだろう,と財政難の明治政府の強引な理由で改暦が行われたのでした.
僕らが子供の頃、目に映る世界は新鮮ですべてが新しかった。やりたい事は何でもできた。ところが年をとってくると疲れてくる。人々は諦め、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。
植村 直己
今回ピックアップした格言は、「世界五大陸最高峰登頂などの功」という功績名で1984年4月に国民栄誉賞を受賞し、その6月にはデンマーク政府より1978年のグリーンランド縦断の際の到達点であったヌナタック峰が「ヌナタック・ウエムラ峰」に改称される、という日本というよりはもはや世界を代表する冒険家・植村 直己のもの。
実は「俺たち 下田低山部」リリース時の、ヒロくんのテキスト”下田低山部は如何にしてできたか?”をはじめて読んだときに自分の頭の中に浮かんできたのが、植村氏のこの言葉。
”オザキ””クワタ””シイナ”といったミュージシャンや作家の名前を出しながら面白おかしく綴られる少年ヒロのストーリー。 時が過ぎ、年を重ねてもなぜか、周りの人々と同じように諦め、落ち着ききれない中年ヒロのアウトドアアイテム収集の口実要因として、平島部長と自分が用意周到に駆り出されるまでの経緯が”もっともらしく”語られる、その適当さは実に秀逸で思わずニヤニヤしてしまったことをここに告白しておきます(注:ここでいう”適当”とは”好い加減”という意味ですのであしからず)。
そして、自分が下田に移住してきたときを思い返すとよく言われたのが、「よく東京からこの地に来たねえ」「何もないところだから退屈しないかねえ」なんて言葉たち。 結果としては移住してから3年経った今でも「まだあそこに行ってみたいんだけどなあ」とか「いつか食べよう食べようと思っているけど、まだあそこのお店の料理を口にできていないなあ」なんて場所ばかりで、退屈どころか全然予定を消化できていないような状況。 いやあ、本当に伊豆・下田を、侮るなかれ、です。
仕事で話す機会がある外国の方からも、「自分が住んでいる国よりも断然シモダはとても美しい」なんて言葉をよくいただいたりもします。 身近で慣れ親しみすぎていることで、気づかない下田の良さ、というのは今尚、満ちあふれているのです。 そして下田は海だけでなく、たくさんの山々に囲まれた場所で、そこにもまた魅力があるのだよ、ということも忘れずに伝えておきたい。 そんなことを思ったりしながら、今日も自分は下田の地を歩きまわっています。
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