「ランボーは乱暴だぜ!」
昔、このどうしようもない言葉に取り憑かれたことがあった。 どうも自分のワイルドさを強調したい時に口からでてしまう。 乱暴なのはランボーであって、自分ではないのだが、本人はランボーになりきっているのだ。 今でもたまにこの言葉が出てしまう。 白い目で見られると分かりつつも抑えられないのは、順調にオジサン化している証拠だろう。 そもそもシルベスタ・スタローン演じる映画「ランボー」の存在自体を僕の子どもたちは知らないの だからこのフレーズの意味は伝わらない。 だって第一作はもう40年近く前なのだ。 でもあえてもう一度ここで確認したい。
ランボーはカッコイイ!
その肉体美、頭に巻いたバンダナ、卓越したサバイバル技術。 うっとりだ。 そしてそれらすべてを象徴するのがあの”ランボーナイフ”なのだ。 要はごっついサバイバルナイフだが ランボー映画を観てあのナイフに憧れない男などいない。
誰だって欲しくなる。 でも大きな問題がある。 映画の中のランボーナイフはあまりにもあまりにも大き過ぎるのだ。 調べてみると刃渡り30cmと言うのだから刃の部分だけで大人のアゴから頭のてっぺんくらいはありそうだ。 おっかないし、実用的ではないし、法律的にも引っかかるだろう。 だからどうしたって購入するのはおとなしいナイフになってしまう。
現在僕が持っているのは「モーラナイフ」と言うスウェーデン製のナイフだ。 刃渡り10cmで使いやすく、デザインもシンプル。しかも手軽な価格。 ベストセラーナイフというのも頷ける。 ナイフ界のユニクロのフリースって感じだ。
だが心に「ランボー」を宿す男にとっては正直物足りなさを感じていた。 もっとズシってくる物が欲しい。。 荒ぶる心をナイフの重さで鎮めたいのだ。 自分にとってナイフを使う場面は殆どの場合Amazonの梱包を破く時だけというのはわかっている。 さっきは「使いやすく」何て生意気な事を書いたが、あくまでもAmazonの箱を開封するのに「使いやすい」と言うくらいの経験だ。 この前はお饅頭を真っ二つにした。
人は普通、ナイフを手に取ると舌をペロリと刃を舐める仕草をして狂った顔をする生き物だ。 映画シャイニングの悪霊に取り憑かれたお父さん(ジャック・ニコルソン)の顔を思い浮かべて欲しい。 イイ顔してる。 僕もこれをやってしまう。 もう儀式のようなもので、誰も見ていなくてもやってしまう。 ランボーも好きだが、バッドマンのジョーカーだったり、映画「レオン」の悪徳警官(ゲーリー・オールドマン)の狂い顔が大好きだ。 僕にもそんな狂い顔が映えるナイフが欲しい。
・・・と言うことで新しいナイフを手に入れた。
そして僕の新しいランボーナイフを試す場所は決まったのだ。 蓮台寺にある「藤原山」と平島部長から告げられた。
藤原山を知っている人はいるだろうか? 下田の人に聞いてもきっと誰も知らないと思う。 蓮台寺から稲梓にまたがる山で、蓮台寺の下田高校近くから稲梓のセントラルホテル付近に抜けられると平島部長が知人の林業関係者から聞いてきた。
前回の大平山は上り下りが同じルートだったが、今回は違う景色が楽しめるということなのだ。 そしてココにも平島部長が大好きな三角点(三等)がある。 地図オタクとしては是非ともゲットしたいポイントなのだ。
スタートとゴール場所が違うので、まずは車1台をゴール地点に置き、もう1台でスタート地点へ戻る。 今回はその途中にある「旬の里」という地場産品売り場で低山ランチの食材を仕入れた。 前回は平島くんから同じメニューで勝負されるというまさかのパワハラを受けたが、今回はこの日のために練習を積んだ自信作を用意してあるのだ。
もちろん前回程よく煤化粧をしてベッピンになった我が悪女「焚き火缶」がリュックに入っている。
当たり前だが僕の頭は山登りよりも、低山ランチとランボーナイフのことで一杯である。
車は蓮台寺にある我が母校下田高校を過ぎてから右折し山に入ってゆく。 右折する目印は「焼きたてパンの店リリー」だ。 Googlemapで覗くとちょうど映画の撮影中と思われる風景をキャプチャーできた。 たぶんイッセー尾形さん主演の「先生と迷い猫」の撮影風景ではないかと思う。違うかな?
細い道を車で奥に進む。 可能な限り行けるところまで車で行きたい、これがハンドルを持つ僕の希望だ。
駐車できるスペースを見つけ、この日のアタックを開始する。 出発前のパシャリ。
道には落ち葉や木の枝などが落ちてはいるが、林業の人たちが普段でも通るのかとても歩きやすい。 僕はもっともっと車で上れたと悔しい思いをする。
ここでも低山植物(※)がよく育ち、とても綺麗だ。 周りをよく見ると苔むした石垣がいたる所にある。 平島部長に聞くと、昔この辺りは金山だったそうで、その名残だそうだ。 歩きながら蓮代寺金山のことをひとしきり話してくれる。 蓮台寺の金山と温泉には密接な繋がりがあると言う。 彼は本当に物知りだ。
(※)低山植物:低山と言う環境下でしか生きられない植物。 普段皆さんがよく目にする緑色のやつです。
僕も家庭では「知らない事はない。なんでも知っている」型の父親業を立派に営んでいる。 子どもからの質問にはすべて自信を持って即答する。 分からない事は嘘でカバーするか、聴こえない事にする。 最近はNHKのチコちゃんから情報を仕入れた子どもが出題してくるという厄介な問題が発生してきたが、それを逆手にとって事前(※)に調べてドヤ顔で答えるのだ。 (今この瞬間にも息子から放射能について質問された。もちろん作り話で即答だ!) (※)我が家はNHKオンデマンドなので世間と時差がある。
だが平島くんが近くにいると僕の立場が悪くなるとこの日悟った。 この人の前では知ったかぶりは禁物だ。
苔むした石垣と垂直に並ぶ杉の木。そしてその間に差し込む陽の光。 道はまだまだ緩やかでとっても気持ちが良い。 前回に続いて山登りは良いものだと思わず気を許してしまった。
道の左手にお地蔵様が立っているポイントで先頭を行く平島部長が立ち止まった。 何やらスマートフォンに表示された地図を睨みながら悩んでいる。 「たぶんここから上に登っていくと思うんです」 部長の指すほうには低山植物が生い茂っているが、僕とアケシンさんは従順な羊のごとく部長に従う。
僕たちが選んだルートは小さな谷間の左側。 どこにも表示がない。 あるのは「捨てるなゴミ・空きカン」看板だけである。 この看板を見て道徳心が芽生える人がいるのか疑問だが、この錆びた看板自体が 景観を損ねているなぁと、残念だ。
道とも言えない道である。 もしかしたら右側ルートなのかもしれないと平島部長が心配しながら歩いているのがその横顔から伝わってくる。 頑張れ!平島部長! 間違っていたらキツイお灸をすえてやる。
次第に斜面がキツくなり、汗が吹き出してくる。 そして行く手に倒木が多くなってきた。
前回の大平山にも倒木があったが、その大きさが桁違いだ。 何十年も掛けて育ったであろう大きな木が根こそぎ倒れているのである。 「どうしちゃった!?」と思わず声を掛けたくなる。
大きな倒木の下をくぐったり、乗り越えたりとなかなか骨が折れる。
そして現れたのはこの「倒竹(トウチク)」である。 きっと秋の台風で倒れたのであろう。 山奥で人知れずバタバタと倒れる大木や竹。 その様子を想像すると何とも言えない恐怖心が襲ってくる。 眼の前に広がる殺伐とした景色。 正直言って怖いとしか言いようがない。。
これを目にしたらきっと誰でも山神様から「これ以上前に進んではならんぞよ!」というメッセージだと思うであろう。 もちろん僕も強くそう感じた。 だって数えきれない✖印があるのだ。
嫁にこの写真を見せたら、なぜリンボーダンスをしなかったのか!? とダメ出しをされた。 悔しい。。 僕はとんだ腰抜けだ。。
そんなことより、帰りたい。
だが神の啓示に鈍感な我が部長は事もなげに先へ先へと進んでいくのである。 僕一人なら絶対に引き返していたであろう。
前を行くアケシンさんが倒木をくぐったのなら、僕は無理してでもまたいで乗り越えるという自分でも悲しくなる浅はかな見栄のせいでたまに股間を痛打しながら進む。
山道の途中で地面が異様にぬかるんでいる場所を見つけた。 「ヌタ場」と言って、イノシシなど野生動物のお風呂場だと物知り部長が教えてくれる。 ここで体中のダニなどを落とすのだそうだ。 だからヌタ場は人間にとって山ダニなどに要注意なのだ。
山登りの途中に鹿の鳴き声が聞こえることはあるが、イノシシの気配を感じたのはこれが初めて。 ヌタ場にはイノシシらしき足跡も残っている。 自分たちが居なければイノシシが家族風呂を楽しんでいたのかもしれない。 もし目の前に現れていたのなら、僕のランボーナイフで一突きなのだが。。
倒木・倒竹エリアをクリアーし、ヌタ場を過ぎたら何やら切り通しのようなものに行き着いた。 これはどうも人の手が入っているように思える。 きっと江戸時代やその昔からの道だったのかもしれない。
ここで平島くんが再び立ち止まった。 目指す藤原山の山頂がどこなのか? もちろんどこにも道案内が無い。 唯一の頼りは平島部長がもつスマートフォンの地図アプリだ。
部長はGPSで現在地を確認して地図と目の前にある地形を見比べて進むべき道を探している。 宇宙に浮かぶ衛星と交信し僕たちに行くべき道を示してくれる平島部長。 きっとユダの民を率いるモーセもこのように頼もしい男だったのだろう。 この前映画の「十戒」を観たからどうしてもそっちに引っ張られてしまう。 ランボータイプではないが、カッコいいぜ。
藤原山の山頂は右方向にある。 この写真に見える切通の右斜面を登る。
登りきったらそのまま尾根伝いを歩いて一気に山頂へアタックする。 道は獣道のようでアップダウンもあり今日一番の辛さである。
切通から大汗をかいて歩くこと約20分。 平島部長は何度ももう少しですよ!とか、 あと〇〇メートル上がればとか、大本営発表的な言葉で元気つけてくれる。 この優しさが憎い。
やっとのことで藤原山山頂へ着いた。 前回の大平山と違い、視界が開けていないのであまり山頂感がないのが少し残念。 木々の間から温かい陽が差して、静かな空間がとても心地よい。 少しだけ開けた場所にお墓のようなものがあった。 刻まれた文字を読むと、ペリー艦隊が下田にやってきた頃に作られたらしい。 どのような経緯でわざわざこんな場所にお墓のようなものを作ったのか分からないが、 そこに江戸時代の人の気配を感じられることが何だか不思議だ。
もちろん藤原山にも三角点がある。 ここは三等三角点だ。
今日の低山ランチは牛スジと木の子の炊き込みご飯だ。 前回はポルチーニ茸のリゾットだったから少し似た方面だが、秋はやはりこんなものが美味しい。 この日のために海辺に嫁や子どもを連れ出して練習台にしてきたのだ。 家族の評判もとっても良かった。
いつものように薪ストーブ用の小枝を集め火をつける。
予め家で洗ったお米と、シェイクして水筒に詰めてきた炊き込み用つゆ(出し汁、蕎麦つゆ、みりんなど)を焚き火缶に放り込む。
地場産品店で購入した名の知れぬ木の子、人参なども入れる。 ちょっと生姜も入れてみた。 牛スジは柔かく煮込んできてある。
そして最後にリュックから取り出したゴボウをさかがきにする。 そう、遂にここで僕のランボーナイフが火を噴いたのである! 僕の手元だけをよ~く見て欲しい。 ゴボウは見ようによっては「木」である。 目を細めればランボーが敵を倒すための「矢」を作っている場面に見えるはずだ。 怖いぐらいに鋭利に尖った「ゴボウ矢じり」がそこにある。
「この山では俺が法律だ」
思わずランボーの名ゼリフが頭に浮かぶ。 く〜〜! カッコイイ~! 醤油臭い風景だが、ナイフ買ってよかった!
平島部長やアケシンさんは普段ナイフを持って山に入らないと言う。 僕には信じ難い。 それはまるでパンツを履かずにミニスカート姿で町を歩くようなものだ。 スカートを履いたことは無いけれど、きっとスースーして落ち着かないだろう。 僕はこの前、ローマの町をちょっと恥ずかしいワケがあってノーパン状態で歩きまわってしまった。 あれはスリリングでワクワクな体験だった。
低山デザートを用意している平島部長の方から甘い良い匂いが漂ってくる。 四十の男が漂わせるには甘すぎる香りだ。 手元を覗くと何かまた面白いものを作っているではないか。 スライスしたリンゴにバターと砂糖を加え火にかける。良い香りがしたらパンケーキミックスを流し込む。 パンケーキはジプロックの中でモミモミするという主婦顔負けの小技も飛び出した。
山の中で林檎のパンケーキだ。 スプーンおばさんの得意料理って感じ。 シナモンも香ってる。 カラメル状に焦げた部分が香ばしくて美味い! これがアケシンさんの低山ドリンクの薫り高いコーヒーとよく合うのだ。 ここで山ガールに出逢えないことが本当に残念だ。
僕の「炊き込みご飯ランボー風」も我ながらとっても美味しく出来た。 ゴボウ矢じりの削りカスがいい味出してる。 味噌汁はインスタントだ。 手をかける所はかけ、抜く所は抜くと言うのが「できる主婦」らしい。 立ち読みしたオレンジページにそう書いてあった。
今回は牛スジだが脂のある食材を入れるのがポイントだ。 (その後サーモンでも作ってみたがバッチリ美味しかった)
低山ランチに満足したらそろそろ帰路につく。 先ほどの切り通しまで戻りそこから降りていく。 山道は細く(たぶん獣道)正直分かりづらい。 平島部長が居なければ確実に遭難するだろう。
ぬかるんだ箇所が幾つもあり、細かな倒木も多く体力を消耗する。 そのやさき、アケシンさんが転倒した。 不安定な倒木に足をとられたようだ。山歩きに慣れたアケシンさんも苦労している。 アケシンさんはすぐに立ち上がり再び歩き始めたが、僕は大切なものを見つけた。 転んだ時にアケシンさんのポケットからスマホが転げ落ちていたのだ。 画面には可愛い娘ちゃんの写真が写っている。 娘の写真を待受画面に。 無口なアケシンさん、微笑ましいではないか。 現代人にとって命の次に大切なスマホを僕は救った。
アケシンさんの転倒の後少しして僕まで転んでしまった。 踏んだ岩が不安定だったのだ。 手首を少し痛めたがランボーだから大丈夫。 しかし悔しい。 悔しくて「コケろ~、コケろ~」と前を歩く平島くんに念を送っていたのだが、 「僕の足をかけないでくださいよ~」と気づかれてしまった。 コケ付き合いの悪い男だ。
黙々と歩くうちに古い石垣の跡がみられるようになり、源泉が湧く無機質な鉄塔を見ただけで人間の気配が嬉しくなってしまう。 ちょっとしたホームシックだったのだ。
相玉温泉の源泉施設の横を通り過ぎ、ムーミンが住んでいそうな建物が見えてきた。
今回は美しい風景や殺伐とした風景など自然を深く強く感じる低山ハイクだった。 知識がないと迷子になりそうなので注意が必要だ。
帰りの車の中であろう事かアケシンさんのスマホが再び無いことに気づく。 もう一度山に入って探しに行くのか!? と疲れ切った3人に重い空気が流れたが、その時僕が助手席の脇に落ちているスマホを発見した。 またもやアケシンさんのスマホを救ったのである。 もう命の恩人級である。 待受画面を僕にするべきだと思う。
次回は下田低山部忘年会を兼ねて下田市と河津町の堺にある「谷津山」へ登る。 山の上で忘年会をするのだ。 そして低山ランチは何と! 平島部長が作る「火鍋しゃぶしゃぶ」! 楽しみだぁ〜。
第2回の山歩きは蓮台寺の裏山(?)の藤原山でした。 蓮台寺といえば温泉ですし、下田のホテルや旅館にもパイプラインで温泉が引かれています。 今回は蓮台寺にあった鉱山と、それに関連する話題を書きたいと思います。 ちなみに皆さんは、伊豆急行線が出来るより前に、下田に鉄道があったことをご存知でしょうか?
伊豆の鉱山といえば土肥金山が有名ですね。1370年代に足利幕府が採掘を始め、江戸時代初期のごく短い期間に隆盛を極めたと言われています。 その後1625年には休山となり、明治時代に再開され、かなりの量の金を算出しましたが、資源枯渇のため1965年に閉山しました。
蓮台寺で金や銀の鉱床が発見されたのは1596年という記録が残っています。鉱床というのは金や銀が多く集まっていて、そこを採掘すれば採算がとれる場所をいいます。 その後江戸時代にどの程度の開発が行われたのかについて、私は勉強不足ですが、1914年から金・銀・マンガンの採掘が始まりました。 1959年に閉山となるまでに、金5.36トン、銀273トン、銅1,054トン、マンガン15,840トンを含む鉱石を採掘しました。
例えば金鉱山といっても、純金が掘れるわけではありません。様々な金属の混ざった鉱石を掘り出し、鉱石を’製錬’することにより石から金属を取り出し、さらに’精錬’することで純度を高めます。 金鉱石1トンに含まれる金の量は、平均してたったの3グラム程度です。リオ・オリンピックの金メダルは6gの金(と494gの銀)で出来ていたので、金だけで2トンもの鉱石が必要となります。 蓮台寺鉱山で掘り出した鉱石は、今の大沢口バス停の近くにあった工場で製錬したのち、現在の茨城県日立市の工場に運んで精錬していました。その運搬に活躍したのが鉄道です。
しかし鉄道といっても、おそらく一般に想像するものとは少し違うと思います。レールは敷かれていましたが、なんと馬が貨車を牽いていました。馬車鉄道です。 1917年に大沢口から武ガ浜にあった下田港桟橋までの4.1kmを結びました。当然,鉱物の輸送がメインですが、1918年からは人も乗せるようになりました。 川端康成も「伊豆の踊り子」の続編の取材で1925年12月に下田を訪れた際、蓮台寺に宿泊しましたが、夕食のあと馬車鉄道で下田の街に出て、また馬車鉄道で蓮台寺に戻ったと記されています。 その後1927年に下田と蓮台寺の間に定期バスが運行されると、馬車鉄道に乗る人は少なくなり、1933年に鉱石輸送専用となります。さらに戦争中の1943年には鉱山の採掘が休止となり、鉄道も休止となりました。 戦後、鉱山と鉄道は再開しましたが、鉱物の輸送はトラックに切り替えられ、馬車鉄道は1年で再び休止となりました。
鉱山の話に戻りますが、蓮台寺鉱山の坑道の延長は約84km、深さは地下200mまで達しました。 蓮台寺温泉は約1300年前に行基が開湯したとされています。地熱で熱せられた地下水が湧いていたのではないでしょうか。 明治のはじめ頃でも敷根など市内数箇所で27-28度の温泉が自噴していました。 蓮台寺鉱山も掘り進めるにつれて、坑内は熱くなり、65度もの熱水が噴出しました。戦後、その温泉水を旅館やホテルに供給できないかと考えた人たちがいました。 パイプラインを使って温泉水を送るのですが、そのルートが、まさに使われなくなった馬車鉄道の跡でした。 坑道から噴出する熱水から始まった下田温泉は、現在は14の源泉から毎分4,500リットルの温泉水を供給しているそうです。
下田周辺には蓮台寺以外にも鉱山がありました。話題としてはマニアックですが、別の機会に続編を書くかもしれません。
「奥多摩もヒマラヤも同じように面白い」
山野井 泰史
前回は海外登山家ラインポルト・メスナーの言葉を紹介したので、今回は日本を代表する登山家・山野井 泰史の一言を選びつつ、話を膨らませていきます。
ヒマラヤをはじめとする数々の高峰で記録的な登頂を重ねてきた氏が、都内から奥多摩に移り住んだのが1992年。 今でもずっと語られ続けられているギャチュン・カンでの壮絶な生還劇のあと、凍傷で手足10本の指を失った氏がリハビリに励んだのもこの奥多摩の山中。 多くのクライマーや山岳ガイドの方々が山梨や長野に居をかまえる中、氏が奥多摩での生活を選んだのは、クライマーのコミュニティみたいなところが苦手というのと、子供のころから遊んでいて土地勘があったことがその理由、とのこと。 そして移り住んだ理由としては、奥多摩は山に起伏があって変化に富んでおり、山歩きから岩登り、沢登り、ボルタリングやトレイルランなど初心者から上級者までが楽しめること、もその大きな要因として語っている。 その中で語られている、ひとつの重要なことが氏の「大きいとか小さい、とかグレードがいくつかということではなくて、対峙したときに、『ああ、これは面白そうだな』と思えるかどうかが大事。 やさしすぎても難しすぎてもだめ。 何とかがんばってトライを続けていると、いつかクリアできる—そういうレベルで姿形が美しいものがあったら、石ころでもヒマラヤでも同じようにおもしろいんですよ」という言葉の中に集約されていると思う。
人の多くが、どうしても偉大なものや有名なものへ憧れを持ったり賞賛をしがちだけれど、本当に大事なことは”大きなこと”でも”偉大”なことでも”有名”なことでもなくて、その対象に対してどれだけ”想像力を高めて関わっていき楽しめる”か、にあるのではないか。 自分が東京で最後に住んでいたのが八王子エリアだったこともあって、ハイクに行くのは奥多摩方面が多かった。 ハイク系の書籍や冊子をみると奥多摩エリアはそれなりにたくさん紹介されていて、それと比べると、伊豆エリアは登山やハイキングコースのスポットが少なかったりすることが多いのだけれど、この”下田低山部”での活動をふまえて、「奥多摩もヒマラヤも、もちろん伊豆も同じように面白い」とみんなが言えるようになったらいいな、と思っているこの頃。 実際、伊豆全体でみたらMTBやキャニオリングだったり、山系のアウトドアアクティビティは充実しているのです。 だから「伊豆といえば夏、そして海」という大きなイメージだけに頼りきっているのはとてももったいない、とそう思っています。
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