その年の冬、当時東京に住んでいた僕は、ある計画を胸に秘めていた。
東京脱出田舎移住計画である。
条件は、仕事の関係上そこそこ東京に近いこと。寒くないこと。海があること。田舎であること。
夏前から調査を開始、かつて文士の町だった鎌倉は物価も高く、田舎ではない。千葉は正直、海の色が気に入らなかった。ただし家賃も安いし、サーフィンの本場だ。東京にも近い。
そして伊豆の下田。
海が美しく、自然も豊か。田舎にしては物価は少々高めだが、サーフィンでも人気だ。
この町が一番気に入っていた。
下田には、もう何年も、夏になれば、沼津の友人宅に泊まって遊びに来ていた。東京からだと千葉よりも遠いのがネックだが、夏に来た時、格安の賃貸一戸住宅を別荘地内に見つけた。
K子とは付き合って三年、お互いすでにおじさんとおばさんだが、残りの人生というか、半生というかを、一緒に暮らしてみたかった。
それならば、まずは下田を見せておきたい。夏に出ていたあの物件が、まだ残っていれば、即決しよう。
彼女は下田をどう思うのだろう。
朝早く東京を出て、伊豆に向かった。
運転はK子だ。
「下田かあ。久しぶりだわ。でもバレンタインデーに旅行なんていいじゃない。運転はわたしだけれど……」
僕は運転免許を失効したままなのである。
「まさか新聞のホテル優待券が当たるとはね」
だから下田旅行を彼女にプレゼントできたのである。二人で朝食込みで一万円は、Tホテルとしては格安料金だった。
天城山を超えると、真冬にもかかわらず、緑が一層色濃くなった。
山が冬枯れしていない。
まさに南国を訪れた気分だ。
道は結構渋滞している。
山を下り、川沿いを走った。
「なによ、あれ? バレンタインデーなのに、桜が咲いてる! 桜よね?」
運転するK子が、興奮気味に叫んだ。
「エッ? 桜? この季節に?」
半信半疑の僕の目にも、色の濃いピンクの桜並木が飛び込んできた。
冬の気分が、一瞬にして春爛漫になる。
僕たちは車の中で、二人だけの春を感じた。
窓を開けた。
「たしかに東京ほどは寒くはないな」
「バレンタインデーに桜なんて、ステキよね」
K子はうっとりとする。
この桜が河津桜だと知ったのは、下田に移り住んでからのことである。
「あのバレタインデーの桜には、ほんとにびっくりしたよね」
毎年、バレンタインデーを迎えるたびに、K子はこの時の旅行の話をしている。
そのたびに、僕の脳裏には、あの鮮烈なピンク色がよみがえる。
あの日、僕たちは、間違いなく二人だけの大切な時を過ごしたである。
そしてK子は、今では海外を旅しているときでさえ、「下田のほうがいいよね」と口癖のように言っている。
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