2017年11月の終わり。

生まれてから約45年の間、一度も手術台の上に乗ったことがないという、ささやかなマイ伝説が下田の地にて、ついに崩れてしまいました。

病名は、網膜剥離。

「だって、人と喧嘩するなんて面倒でしょう」。

半分本気で半分冗談ではありますが、日々そんな思考で過ごしていることもあり、殴り合いの喧嘩なんて、幼少期を過ぎてからは一度もしたことがありません。

そんな自分が、よりによって網膜剥離!?

もちろん、顔、というより眼に衝撃や負担がかかりそうな、例えばボクシングのようなハードなスポーツとも無縁なことはいうまでもありません(余談ですが、漫画「はじめの一歩」は長年愛読しております)。

もともと2年前ぐらいから、右眼の視界に、蚊なのか蝿なのかはたまた蟻なのか、それとも塵なのか細かいものがランダムに散らつくようにはなっていました。いろんな人に聞いたり調べたりした結果、それが”飛蚊症”と呼ばれている症状であることが分かりました。

インターネットなどでチェックしてみると、それは眼の老化から起こり、基本的には治せない症状であるようです。「それはそれとしてつき合っていき慣れるしかない」なんてツレない内容が多数。そうかあ、そうなのですね。

その一年後、つまり2017年の夏ぐらいから、今度は左目から似たような症状がうかがえるようになってきました。それが単なる眼の老化によるものなのか、ちょうどその頃、仕事で目を凝らしながら進めるような業務が増えていたことも影響しているのかは明らかではないですが、結果として疲れ目に効く(と謳っている)目薬を多用しつつ、眼を擦ってお茶を濁すような時間を過ごすことが増えてきました。

そして冒頭に書いた去年の11月の終わり。霞み目があまりに酷くて、妻に「さすがに一度眼科に行かなければダメだね」などとつぶやく機会が増えていたある日。

ふと、右眼を閉じて、左眼だけ開けたときのことです。

おやおや、本来見える(はずである)視界の右側約2〜3割がどうにも暗いのです。その瞬間に、霞み目の原因が分かった、というかとても腑に落ちた気がしました。

つまり、右眼は視界良好で、左眼で見える視界の鼻側(視界の右側)が暗くて、左側はきちんと見えるため、両眼を開けたときに視界の中心部が霞んだ感じに見えるのだ、と。

その超個人的な大発見により、心のなかでのモヤモヤの大半は解決されたわけですが、もちろんそのまま放置しておくわけにもいきません。

近くの眼科の予約を取り診断を受けると、その結果は、左眼の網膜裂孔による網膜剥離でレーザー治療もしくは緊急手術が必要とのこと。その翌日に紹介された伊豆の国市にある眼科で再度診察を受けたところ、やはりすぐに手術すると告げられる。視力チェックのときにいわれたのは、この言葉。

「この(網膜が剥がれた)状態で、よく物が見えてるね。あと1日遅かったら失明しててもおかしくなかったね」

手術自体は数時間で終わり、麻酔をしていることもあって、時折チクリとした痛みを感じるくらいで、そんなに苦痛ではありませんでした。印象に残っているのは、ただただキラキラと明るく眩しい状態が続いていた、ということぐらい。術後は、指示された期間ごとの定期通院は必要ながら、入院はしなくて良い、とのこと。

ところが網膜剥離の病状からの復帰で、大変なのはここから先。

眼球内にガスを入れる都合もあり、術後1週間から10日の間は、24時間ひたすら下を向き続けなければなりません。食事やトイレなどの際、多少の移動が静かにであれば許されているのはせめてもの救い、ですが。そういったわけで、起きているときも当然苦痛なのですが、寝るときがこれまた困ります。

バスタオルなどを丸めて作った特製枕(?)に顔をうずめながら、睡眠をとるわけですが、横向きは禁止。一応若干顔の向きを斜めにする程度は許可が出ましたが、そのぐらいではこの苦痛を回避するには至りません。

 

タオル

 

日が経つにつれ、極度の肩こりによる頭痛や吐き気、さらには入浴の禁止も重なり、精神的なストレスがドンドン蓄積していきます。

約2週間そのような精神的苦痛な日々を乗り切ると、術後の経過が順調だったこともあり、眼帯を外す許可も出て、ほぼ普通の生活が過ごせるようになってきます。

しかし、眼の視力が安定するには術後から2ヶ月程度かかることもあり、眼鏡も気軽に新調するわけにもいきません。ボーッとテレビなどを観ている分には支障がないですが、読書をしたりPCやスマートフォンの画面を見るときは、どうにもモヤモヤした気持ちが胸に残ります。

また一番の問題が体力低下。術後から約2週間、1日の歩数が多くて100歩程度の生活を過ごしていると、みるみる足の筋力などが落ちていきます。終いには実に、十数段の階段を上がるだけで息が切れる、という始末です。

さあ、実に長い長い前振りがようやくおしまい。今回・そして次回の下僕では、自分が自身の体力復活のためにリハビリを重ねつつ伊豆・下田の地をウォーキングしたときに感じたことや考えたこと、体験したことについて語っていきます。

 

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病院から外出の許可が出てから数日後。

ウォーキングは最初、自宅周辺を少しずつ歩き始めるところからスタートしました。

なんといっても自宅内だけで息を切らすようなレベルまで体力が低下していたので、まずはゆっくり、ゆっくりと一歩一歩ずつ。お年寄りレベルからの再出発です。

ただ、1日1日着々と歩いていると、普段、仕事の通勤途中に自転車でさーっと走り去っていては気づかないことにもいろいろ気づいたりします。

また、歩くときは極力、普段通ったことのない一本裏の路地などに足を向けるように意識していました。すると「あの屋根の蒼い色は自分の好みに実にジャストだなあ」とか「この家の主人の趣味は盆栽なのだなあ」なんてささやかな発見が次から次と満ち溢れてきて、実に楽しくなってくるわけです。

 

盆栽

 

そして、そんな「病み上がり男の一人街歩き in 下田」を数日続けるうちに街中の様子からはっきり感じ取れたことの一つが”取り壊しの家がとても増えてきている”、ということでした。

自分が下田に来てからちょうど二年。

その間、多少の建物の取り壊しはもちろん見受けられましたが、ここ数ヶ月は街のあちらこちらで解体工事をしている光景を目にする機会が特に多かった気がします。解体後は新たな家が建てていることもあれば、駐車場として再利用している場合もあったり、更地のままなどその活用の仕方はいろいろ。

ただ土地の所有者の高齢化が進んだり、ずっとシャッターを閉じたままの店舗が増えている現況からすると、今後そのような光景を見る機会はどんどん増えていくような気がしました。

さらに下田の街中に限定して焦点を絞ってみると、駅から少し離れたエリアとはまた違った問題があるようにも感じ取れました。それは、地代や賃料が下田の街自体の好景気のときの水準をひきずっていて、その割に新しい賃貸物件は少なく、現在はなかなか新たな若い人たちが移り住むには厳しい環境下にあるということです。このことは、やがて結果として街の活性化に繋がりにくい、という問題に直結していきます。

自分の場合は、たまたま数年誰も住んでいなかった妻の実家があったため、東京で住んでいた時より賃料のコストカット化が図られたので街中への移住を進められました。ただ、これは割とレアケースといえるかもしれません。

街の不動産屋の前で立ち止まって、街中の物件の地代や賃料を見比べたりした後、月々の収入からその賃料や固定費を引いていくと、手元に残る金額はある程度見えてきます。もちろん収入にもよるでしょうが、首都圏などと比較をすると当然給与額は下がるので、余裕ある生活を過ごすにあたり懸念材料のひとつとして課題が残るのは確か、だと思います。実際、去年自分が参加した、東京と下田に住む人たちを繋ぐイベント「こどもとおとなのひみつ基地」でもこの点を気にしている方たちのお話を耳にしました。

単身の場合、寮の手配があったり食事付の宿泊施設などに勤めれば出費のバランスの改善は図られそうですが、ファミリー世帯となると、その人数をカバーできる寮や社宅が完備されている法人企業は限られてきます。

こういった問題を解消するには、今までは不動産屋さんなどが土地所有者と賃貸者の間を取り持ち仲介に入るという流れがスタンダードだったのでしょうが、これからは市や町内自体が今まで以上に積極的な移住者向けのアプローチを行っていく必要が、まずはあると思います。

そして、土地所有者の方々自体も、自身が持たれている建物や土地の運用の仕方について柔軟な思考と姿勢を持つことが大事になってきます。

まず第一に、建物を解体して更地にすると固定資産税が上がるから、ひとまず古家として放置しておく、というのは決して「現状維持ではない」という視点を持つこと。

人の住まない空き家は、更地にしておくより高くはないにしても、毎年固定資産税が確実にかかり出費が進んでいるということは間違いありません。そして建物自体の老朽化も同時に急速に進んでいくのです。

もちろん「長年小さいときから住んでいた思い入れのある土地だから」「いずれ子供が戻ってきたときに利用してほしい」など、それぞれの事情というものはあるでしょう。ただ現況が本当にベストな状況なのか、ということについて一度考え直してみると、もっとベターな答えが出てくるケースもあると思うのです。

 

坂下の道

 

例えば、近頃はこういった「SPACELIST」といったサービスも出てきました。

https://space-list.jp

このサイトでは、仲介を通さずにオーナーと借りたい人が直接やり取りをすることができる賃貸情報を掲載しています。当然、仲介者に案件を預けるよりもやり取りをする手間や面倒は増えるでしょうが、その分、ダイレクトにお互いの条件や要望を交換し合えるスムースさは遥かに増すと考えられます。もちろん仲介料といった経費圧縮にも繋がります。

現時点では都市中心部での賃貸情報が多いですが、埼玉県や千葉県などの物件情報も掲載されている状況をみると、今後、首都圏近郊だけでなく各地方の情報を中心としたこのような情報サイトは増えて、一定のニーズを満たしていくはずです。

それはその昔、街の中の質屋が果たしていた役割を、街のリサイクルショップが代わり行うようになり、やがてネットオークションを活用する人たちが現れて、近年は”メルカリ”や”CASH”といったサービスに変化を遂げている状況と重ねられるとも思います。いわば仲介から個と個への関係の揺り戻し、といえるかもしれません。

と、いつになくマジメな話に終始している今回の下僕。

なぜこのようなテイストかというと、もちろん自分が病後で何気にシリアスモード、というのもありますが、こういった話が、我が家が抱えている住宅問題ともまったく無縁ではないから、なのです。

今、自分が住んでいる家は街中の商店街に面しており、伊豆急下田駅までも徒歩10分ほどの場所にあり、条件としては比較的好立地な部類に入ると思われます。

ただ、建物自体の老朽化がかなり進んでおり、中には、天井や畳が抜けている部屋もあったりする現況です(昨年二度の台風で完全に致命傷をくらいました…)。その状況を目の当たりにすると、正直申し上げてちょっと笑えない感じ、であります。

妻にしてみると、自身が幼少期に過ごした思い入れある場所であることは確か。だから東京から下田に移り住むにあたり、最初はリノベーションすることで、住まいの改善化を検討していました。

ただ、もともとの建物のつくりが、店舗 / 居住部 / 賃貸用居住部と分かれており、さらに増築している箇所もあることから、作業やコスト的にはかなり難航が予測されます。因みに、ざっくりの見積もり金額としては2000万円ほどかかる模様。

それなら一旦更地にして新築を…、というプランを考えるわけですが、これはこれで場所的に商店街に面しており、両隣との境界も広くないことからコスト的には相場よりやや割高な金額になりそうな塩梅。鉄筋3階建ということもあり、解体費だけでも500〜600万円ぐらいでしょうか。そこから新築の家を建てるとなるとやはり、2階建だとしてもこれまた2000万円ぐらいは見ておかないといけないでしょう。

これだけの金額となると、なかなかお気軽に「よしっ!」と決められるわけもなく、「今、住んでいるところは固定資産税分ちょっと補える程度で貸して、借りてくれた方に好きにDIYしてもらって、自分たちは少し街中から外れたところで中古物件を…」とか、現実と夢が入り混じった妄想があれこれ浮かんでは消え、浮かんでは消え…が脳内リピートされていくわけですね。だから、ただただひたすら歩いているときなんて、いやあ実に、最高の妄想タイムなわけです。

そんなこんな老若男女、地元の人たちや移住希望者の方たちそれぞれの妄想あれこれトークを繰り広げたり、相談できたりする、サロン的スペースが下田の街にあってもいいなあ、なんてことも思ったりするこの頃です。

コメント一覧

  1. アケシンさん…網膜剥離だったなんて…大変な時間を過ごされてたんですね。。

    あたしも数年前に大きな病気になり暫く闘病生活でしたが、その不自由さ、ストレスは、罹患した者でないとわかりませんよね☆

    そして
    その代わりに今まで見えなかったもの、見て来なかったものが見えてきたりもしますよね☻♡

    伊豆へ移住…
    あたしも以前、色々と自分なりに調べてみたりした時期があって、そちらに土地を持ってるわけでもなく何のツテもなかったので、下田の不動産屋さんに相談してみたりしましたが、なかなか難しいです。

    家賃安いけど物価は東京とたいして変わらないし、収入も減るだろうし、肝心な仕事は見つかるのだろうか…とか問題だらけで。

    夫婦で移り住むのは、今はとりあえず無理。って結論になって…まだ東京にいますw

    アケシンさんが仰るようなサロンスペース、ぜひ欲しいですねー♬

    …アケシンさん
    病後はホント驚くほど体力低下してます。
    どうぞお身体無理なさらず、お大事にしてくださ
    い。

  2. >ピロ子さん

    いつもご愛読&コメント、ありがとうございます! こうしてご意見・感想いただけるのはホントに励みになっておりますー!

    ピロ子さんも大病を患ったことがあるのですねー。自分の今回の網膜剥離は手術自体は1日で終わりましたし、入院しなくて済んだのでさほど苦痛度は高くなかったのかも、なんて思ったりもしてますが、やはり目の病気はこわいですね。視力的には術前よりは落ちましたし、眼鏡の度の調整もなかなかうまくいかず、実際のところストレスは抱えた日が続いてます。

    ですが、失明してたかもしれないことを思えば超御の字!ですからね。まだまだ下田の景色や街並みを見ながら過ごしていきたく思っています。移住はなかなか収入とのバランスを考えたりすると、そうそう気軽に、ってわけにもいかないですよね。個人的には下田の場合、街中よりは少し駅から離れた場所の方が(DIYが得意だったりすれば特に)移住しやすい条件が揃いやすいかなあ、なんて感じたりしますね。

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明山真吾(あけやま・しんご=アケシン)

1972年、東京都中野区生まれ。
サラリーマンとして慎ましく人生を歩みつつ、90年代から2016年まで都内にてUK・USロック&ギターポップ / 渋谷系DJとして活動。音楽に関わるディスクレビューやライブレポなどのライター活動も並行して行なう。 2016年2月に下田に移住。仕事と子育て、下田の街中散歩を満喫する日々。
趣味:音楽 / カメラ / 低山登り / 団地チェック / 読書

サイト“A CHANCE MEETING” : https://akeshinmooka.themedia.jp