わたくし、「明るい山」という非常に輝かしくおおらかな名前に完璧に負けている、とにかく明るくない明山と申します。

2016年2月に東京から下田に移り住み、一年と二ヶ月ほどが過ぎました。今では、下田生まれでデザイン業を営む美人妻(*1)、そして2歳になる娘(*2)と一緒に歩いていると、街中の人たちに挨拶をしてもらえるぐらいに街に馴染みました。

「それはあなたじゃなくて、妻や娘に挨拶してるんでしょ」というツッコミは野暮ってものです。一人で街中を風きって歩いているときは、サングラスをかけたり帽子を深くかぶったりしなくても、まるで幽霊のように誰にも気づかれないので、とても気分いいです。

この度「伊豆下田100景」という公の場にて、どこの馬の骨とも分からぬ自分の下田移住ライフについて綴ることのできる機会をいただきました。しかし、なんと太っ腹なサイトなのでしょう(某リフォーム番組ビフォアアフター風に)。

とにかくこんな貴重なチャンスを「ほれっ」っといただいたからには、しくじるわけにはいきません。休日毎に、マックス○リューでの買い物途中にうつむきながらとぼとぼペリーロードを散歩している素敵な下田ライフをみなさまに見せつけてやろうと力弱く決心いたしました。

下田に来てから約1年ちょっと、行きたいもののまだまだチェックできていないスポットや食べていない食事処やカフェは数多く、ネタには欠かさない状態です。原稿の構想&妄想だけはめっちゃストック十分なのです。どうだ、すごいでしょう。

今後のわたしのしたたかな目論見としては、下田に住んでいる諸先輩方へは「こんな角度からみた下田もあるよ」というあたらしい楽しみ方の提示ができたら最高だな、と思っています。そして、下田に「観光に行ってみよう」とか「移り住んでみよう」と思っている方には、少しでもその思いが現実のものとなり、実際に下田に来るきっかけづくりができたらいいよねー(いきなり馴れ馴れしくなってみる)。

第一回目である今回は、自分が約40年過ごした東京を離れ、シティボーイからシモダボーイへと劇的な変容を遂げる経緯について触れております。まずはおつきあいいただければ幸いです。ここから先、いきなり文体が変わりますが、びっくりしないでください。

「東京から下田にくれば?」

2015年のある日。移動する車の中で、義母からそういわれたのが、下田への移住の大きなきっかけだった。 東京で9年近く働いていた不動産会社をやめて「さて、次の仕事をどうするかね」と考えていたときのことだ。

「それも、いいかもしれないですね」

義母に聞こえるか聞こえないか、とても微妙な大きさの声で、自分がそう答えを返すのにさほど時間はかからなかった。
普段、無口な自分な故、ある意味レアともいえる母と夫のそのやりとりを横で聞いて、妻が笑った。
自分の夫がいつものごとく煮え切らないうやむやな言葉を返す、と予測していたら、あっさりと予想外の回答を返したことによる笑いだったのであろう。

話は約5年前にさかのぼる。

東京の中野区で生まれて、約40年。
下田には、「伊豆の観光地」「若者たちがマリンスポーツを楽しむところ」「ペリー来航の歴史ある地」くらいのざっくりとしたイメージしか持ち合わせていなかった。
そもそも、自分が訪れたことがある、と記憶している伊豆最南端場所は、幼いころ父の職場の旅行についていった稲取の銀水荘や伊豆シャボテン公園、といった具合だ。

だから、下田という地についていえば、たとえば鎌倉や軽井沢、という観光地の地名が挙がったときに頭でえがくイメージと同種の印象をもっていた。
ざわついたところはあまり好きでなく、マリンスポーツとはまったく無縁。小学生のころはかなり歴史好きだったものの、中学以降はさほど追求せずに暮らしてきた自分にとってそこが果たして好ましい場所なのか、心のなかでピントが今ひとつはっきりしていなかった。

2011年8月中頃。妻とつき合いはじめてまもなく、当時、東京の三軒茶屋に住んでいた彼女が「地元の祭りで三味線を弾くから」と帰省するタイミングで、自分も後追いで下田に行くことにした。「今、おつきあいさせていただいております」的な彼女のご家族への挨拶、をするための下田初上陸、である。事前に得ていた非常に断片的な彼女の家族情報をもとに、会ったときの会話シミュレーションをなんども脳内で繰り返しつつ、観光気分も手伝って、なんともフワフワした気分で下田入りを果たしたのを記憶している。

はじめて訪れた下田の街は、いよいよ下田八幡神社例大祭-下田太鼓祭り-が始まるよ、という言葉にしがたいくらいの熱気と賑やかさが爆発していた。道ですれ違う若者たちや、年配の方々たち。顔を見れば、とにかく笑顔、笑顔の金太郎飴状態だ。祭着をピシッと身にまとって大粒の汗を飛ばしながら、神輿を担いだり、太鼓を叩いたり、笛を吹いたり、三味線を爪弾きながら下田旧町内を練り歩くたくさんの街人たち。その活き活きとした様を目の当たりにして、まずは圧倒されてしまった。

下田祭り

夕方6時前。「まだ三味線を弾いていて合流できないから、お母さんと一緒にご飯を食べて」という趣旨の、彼女からのメールが携帯に届いた。一度の面識どころかまだ話したことすらない彼女のお母さんとのいきなりの「はじめまして」と、その後の食事がどれだけ緊張するものになるのか。そのあっけらかんとした無茶ぶりに軽くため息をついた。村上春樹でいうなら、やれやれ、という四文字に変換できるはず。ちなみに、開国厨房ぼちぼちで初対面の挨拶を済ませたのち、ご飯を食べた。

下田で評判の金目鯛の串焼きや、身からジュワッとたっぷり油が弾け出た焼き魚、とても新鮮で口の中でぷりっぷりな弾力がたまらないお刺身。どれもが文字どおり美味しく、キレイに平らげさせていただいた。もちろん真夏の夜には必須のキンキンに冷えたビールも忘れない。

「ごちそうさま」。

緊張していて食事が喉を通らない、とはよくいうが、きっとそれを軽々超えた美味しさだったから、ペロリと口にすることができたのは間違いない。義母との会話はお世辞にも弾んだ、とはいえなかったはずだが、推測するに最低限不快感は与えなかったから、今こうして妻と結婚できているのであろう。食事後もお義母さんとはご一緒させていただいて、暑い夜の下田の街をぐるぐると歩き、熱き楽しき祭りを堪能させていただいた。ただ観ていただけなのに、着ていたシャツは絞れば水が滴りおちるくらいぐっしょりであった。

祭りを終えた翌日。下田の街の朝は、とても穏やかであった。祭りの片づけをしている人たちの姿がなければ、前日のあの街の風景、あの太鼓の音が記憶違いかと思うくらいである。その穏やかさや静けさは、ある意味前日のお祭り以上に自分の中で印象的であり、その街のなかで自分がいることに不思議と違和感を感じさせないしっくりとした空気であった。

それから年に3、4度、下田に訪れる機会がつづいた。くるたびに、飽きることもなく、むしろ限りなく自然体に近い状態で下田の街を楽しめている自分がいた。

2015年4月。自分と妻との間に一人の娘が生まれ、また、ほぼほぼ同じタイミングで勤めていた会社を退職することとなった。

「2015年は育休の年」。

そんな風に考えて、妻と一緒に小さい赤ん坊という存在に四苦八苦しながら過ごしていく中で、東京で働くことや子育てをしながら生活することの是非について考える機会も増えた。イケダハヤト的にいえば「まだ東京で消耗してるの?」といった塩梅だ。また、年を重ねるごとに都会での遊びより、低山登りなど自然に関わることに興味が移っている自分もいた。

いくつかの偶然が、必然へとつながることがある。

そして、今はこう思っているのだ。下田が、ぼくを呼んでいたのではないか、と。

(*1) 知り合って数日で妻に「あなたの顔は好みではない」と口走ってしまい、キレられた経験あり
(*2) 想定していた以上に可愛すぎて完全に親バカ状態

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明山真吾(あけやま・しんご=アケシン)

1972年、東京都中野区生まれ。
サラリーマンとして慎ましく人生を歩みつつ、90年代から2016年まで都内にてUK・USロック&ギターポップ / 渋谷系DJとして活動。音楽に関わるディスクレビューやライブレポなどのライター活動も並行して行なう。 2016年2月に下田に移住。仕事と子育て、下田の街中散歩を満喫する日々。
趣味:音楽 / カメラ / 低山登り / 団地チェック / 読書

サイト“A CHANCE MEETING” : https://akeshinmooka.themedia.jp