第18話「二つの墓に葬られたアメリカ人」

ペリーの艦長給仕ロバート・ウイリアムズ。
横濱と下田に2度葬られたアメリカ人。
彼の存在は、日本とアメリカ、横濱と下田の心をつなぐものだった。
 

「一アメリカ人の埋葬の様子」

1854年3月9日(木)日本人役人が葬列に付き添って埋葬地案内のため、ミシシッピ号にやってきた。
午後5時、3艘のボートは死体をのせて艦を離れた。
従軍牧師ジョーンズ師、通訳のウイリアムズ氏、海兵隊の一隊が随行した。
各艦船が半旗を掲げる。
横濱村から少し離れた丘の麓で、とても美しい場所が埋葬地である。
ジョーンズ師は矢戸というところに上陸すると数人の日本人役人にきわめて丁重に迎えられた。
行列は鉄砲を担いだ兵士7名、笛を吹く楽員、太鼓を肩から下げている2人の楽士、塔婆(墓標)をもった2名、僧服を着た人物、棺を担ぐもの4名、手伝いの兵士10名の26名が続いた。群衆も集まってきて好奇心にあふれる目で、しかし礼儀正しく敬意を払いながら、葬列が物悲しい太鼓の音に合わせて静々と行進するのを眺めていた。
家から人が出てきてもいた。
途中、真田藩の馬小屋の前を行列が通った時に、笛と太鼓の音に驚いた数十頭の馬が一度に跳ね上がり、大騒ぎになったという。
埋葬地は日本人墓地の近くにあり、そこにはすでに見事な刺繍された絹の長衣をまとった仏僧がいた。
 

ジョーンズ師はアメリカ聖公会の祈祷書を読んだ。
司式中、仏僧が祭壇の前のむしろの上に座っていた。
祈祷書朗読後、死体が下ろされ、土が投げられ、一行は埋葬地を離れた。
すると、仏僧が葬式をはじめて、銅鑼を打ち鳴らし、ガラスと木の数珠を繰り、経を唱え、香をたき続けた。
アメリカ人が退却後も葬式が続く。
群衆もその場にとどまっていた。
やがて日本人の役人たちは、アメリカ人の墓の周囲にきちんとした竹垣を設け、近くに小屋を建てたが、これは日本の習慣に従ってしばらく墓を見守る日本人の番人用の小屋であった。
(ペリー「日本遠征記」及び「亜墨理駕船渡来日記(石川本)」の内容の要約)
 

1854年3月6日、横濱港停泊中の「ミシシッピー」号の帆柱から甲板に転落して死亡した、艦長給仕のロバート・ウイリアムズの埋葬の様子です(享年24歳)。
初めは、幕府側から、長崎に埋葬地を確保してあり死体を浦賀経由で長崎に運ぶ案がありましたが、ペリーは、ウェブスター島(現在の横須賀港の埋め立て地の夏島)に埋葬するように提示し、協議の末、結局埋葬地は元町の現在元町プラザにあった増徳寺に隣接する場所が選ばれました。
 

小さな横濱の港で突如として行われた葬儀は人々を驚かせ、葬式自体も、キリスト教式と仏式の二通りが執り行われ、地元の人間の記憶に残るものとなりました。
 

「横濱外人墓地」

横濱では、開港後、急ピッチで港の整備が行われます。
横濱で本格的に外国人の埋葬が始まったのは、この葬式の後のロシア人の墓の建立からです。
1859年8月25日、ロシア使節、東シベリア総督ムラヴィヨフの随員、モフェトとソコロフが横濱市中で殺害され、2日後に仮に埋葬されました。
左右に日本人とアメリカ人の墓所がある場所で、やはり増徳寺近辺であったようです。
この増徳寺近辺を中心に墓域が広がり、現在の外国人墓地が形成されることになります。
 

ロバート・ウイリアムズの葬式と墓の建立が横濱の外国人埋葬と墓の建立の端緒を作ったのです。
 

横濱の外国人墓地。世界40か国以上、5000人以上の外国人が眠っている

横濱の外国人墓地。世界40か国以上、5000人以上の外国人が眠っている

 

「下田での2回目の埋葬の様子」
4月8日、一夷人が船中にて相果て柿崎村玉泉寺と申す寺に葬られた。
同日の夕方、三艘の船で60人ほどが上陸し、一人先頭の人物は僧服のような服を着用していた。横濱で埋葬されたように寝棺である。長さは2メートル以上、幅高さは70センチぐらいの棺で、赤く塗られていて、黒い布がかけられていた(古老の話では棺には星条旗が掛けられていて、軍楽隊の演奏でにぎやかだったとのこと)。
6人でこれを担ぎ、墓穴に板を渡し、その上に棺を置き、先頭の人物が本を取り出し読経をする。60人余りの人間が帽子をとった。
中には涙を流しているものもある。
読経を読む人物が鍬で土を少しずつ穴へ入れ、そして棺を穴へ下した。
横濱では鉄砲を打ち鳴らしたが、ここでは鳴らさなかった
(安政のころの「竹芝漁人」の日記の内容の要約)
 

1854年日米和親条約締結後、下田にやってきたペリー艦隊はロバート・ウイリアムズの遺体を掘り起こし、その棺を下田の地に埋めることとなります。
どちらの葬儀も軍楽隊がつき賑やかであったようです。
 

「下田の外国人墓地」

ロバート・ウイリアムズの墓が作られた後、下田の玉泉寺には4名のアメリカ人が葬られることとなりました。
古い順に、1854年5月5日「ポーハタン」ごうで転落死した、G.W.ハリッシュ(享年21歳)、
1854年7月23日「サスケハナ」号で航海中に死亡したジェームズ・ハミルトン(享年38歳)、
1855年2月2日「ポーハタン」号で死亡した、ジョン・D.ストーム、
1858年7月31日下田港沖で死亡した「ミシシッピー」号海兵隊員、アレキサンダー・ヅーナンの4人です。
 

下田の玉泉寺にあるアメリカ人の墓

下田の玉泉寺にあるアメリカ人の墓

 

「横濱と下田を結ぶ心」

二回に分けて埋葬されたウイリアムズ。
政治が絡んだ話ですが、町の変容とも関係しています。
当時は、横濱はまだ小さな村であり、一方下田も漁村でしたが、こちらはアメリカが領事館を設置する意向があり、江戸方面への前哨基地の観を呈していました。
 

しかし、1859年6月に横濱は開港し、12月には下田が港を閉じます。
そして、1860年、ついに下田から奉行所がなくなり、政治的な機能を失います。
下田に代わり、横濱が海外の玄関口として産声を上げたのです。
 

町の盛衰は人の離合集散を引き起こします。
お吉や鶴松、下岡蓮杖が横濱で暮らすのもこの動きに合致します。
人が集まり生活し、町が大きくなれば、そこで死ぬものも出ます。
下田人たちも横濱の地に墓を作ったでしょう。横濱の外国人墓地も規模が大きくなりました。
一方、下田では1859年のロシア人の埋葬以後、幕末期の外国人の埋葬はありません。
 

以前にも指摘したように、横濱と下田は兄弟のようなものです。
深い血縁関係にあります。
横濱を作った人々の中で下田人は重要な働きをしたのです。
このひとりのアメリカ人の埋葬物語からも、横濱と下田を結びつけるひとの心が見えてきます。
 

横濱で彼の埋葬を初めて見た人々も、下田の人々も、見知らぬ異国の人間であっても、ひととして死を迎え、その死を悼む心は同じだったはずです。
 

日本のふたつの土地の土に抱かれたロバート・ウイリアムズは、影の歴史として、下田人と横濱人の心を結びつけたのです。
 

 

玉泉寺

コメント一覧

  1. 下田と横浜。下田で生まれ育った私は、生粋の下田っ子を自認してましたが、実はルーツは横浜にあった。今まで思いもしなかったことですが、横浜がグッと身近になったように感じます。

  2. 恵美さん、お返事ありがとうございます。僕も、こんな形でまた横濱とかかわるとは思いもよりませんでした。これを機に、横浜ももっと知りたくなりました。野人

  3. 札幌育ちの自分には、教科書で見た歴史がそばにあることが、とても興味深いです。
    毎回、よく調べて、すごいですね〜プロの方と、思います。ありがとうございます。
    感謝〜

  4. 堀田さん、コメントありがとうございます。北海道にも深い歴史の話があります。人がいればそこが歴史の舞台になります。人ありて歴史あり、歴史ありて人あり、です。野人

  5. Matthew C. Perry

    The story of the two cities, Yokohama and Shimoda, joined by the two burials of Robert Williams, is very interesting and important in regard to, not just the relationship of the two cities, but the relationship between the two countries. Commodore Perry came to Japan for “peace and amity” and the permission he obtained for the burial of a sailor on Japanese soil, with the assistance of Buddhist priests was very influential in creating the strong relationship between the United States that has existed before and after World War II. It is greatly hoped that this friendly relationship will continue forever.

  6. Thank you very much for comment, Perrysan. It is important that R.Williams was buried at two cities, YOKOHAMA and SHIMODA, I think so too. I hope that our children will smile each other. And I hope to make your visit to SHIMODA again and to meet.

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。