第16話墓との戯れ

今振り返ると、記憶にある墓体験は意外に深かった。
墓とともにあらんことを・・・。
 

「思い出の墓体験」

 
 漫画家の水木しげるさんの子供の頃の遊び場はもっぱら墓場だったそうだ。
子供の頃には墓場や神社は深閑として怖くて一人では遊べないものだが、水木少年は一人で十分楽しく遊べたという。
小学校1年の頃、京都の西大路に住んでいたときに、下校途中の墓場をどうしても一人で通らねばならないことがあった。
同級生から、「墓場で三回転んだやつは死ぬんやて」と聞いていたので、この時の冒険は心臓が口から飛び出し、足がふらつく難行であった。
 
 夏場に帰省する母方の郷里が島根県浜田市の寒村で、国分寺という有名なお寺が一つだけあった。
京都の寺の多さに比べれば何も恐れることはないようだが、祖父から「夜にはギャーギャー狐とコンコン狐の2種類の狐が鳴くんだよ」とこれまた到底夜などには外を歩けそうにもないことを吹き込まれた。
墓場ではなかったが、一度祭りの帰りに寺の境内と村の畑道を通って一人で猛ダッシュで帰宅した覚えがある。
  
こんな調子で、少年時代を過ごしたが、大学生となり東京のど真ん中で暮らすようになり、もうお墓もないだろうと思っていたら、下宿先の四谷のアパートは服部半蔵が眠るという墓場の下にあり、夜遅く飲み歩いて帰宅するときには、これまた胆の縮む思いで帰宅せねばならなった。
大学1年生のときに、この墓場近辺をよく調べようと思って、歩いていたら、何と「お岩稲荷」と「伊衛門神社」が近くにあることが分かった。
二つの神社は昼でも人気のない住宅街にあり、日中でも何か突然出てきそうな静まり返った不気味な雰囲気を感じた。
 

「運命のエトルスキ研究」

 
 うん、ここまでなら単に偶然が重なったというしかないが、大学院でイタリア古代史をかじってのめり込んだのが、よりによって「納骨容器」であったことには、我ながら墓場と縁が切れないものだと諦めるしかなかった。
今から2400年以上も前に、ローマ帝国が成立する前のことだけれど、エトルスキという民族がトスカーナ地方を中心に暮らしていた。
彼らは、表面を彫刻したり顔料で絵を描いた「納骨容器」や石棺を作り墓に納めていた。
結局、ここでも墓に付き合わなければならない運命となってしまった。
調べてゆくうちに、このエトルスキたちは、初期の時代には、日本の円墳のような墳墓を作り、次第に地下に墓室を持つ墳墓を作るようになる。
墓室内には副葬品のほかに壁面に壁画を描いてもいた。
冥界の王が宴会を開いている場面、ボクシングをしている場面など面白いものが多いのだが、時代が下るにつれ、「納骨容器」でも壁画でも壺絵でも、あの世の魔人や怪物が描かれるようになる。

水木さんの本でたまたまこの魔人が紹介されているのを見つけてニタリとほくそえんだことがある。
ここまでくると、少年の頃の恐怖心や経験、水木さんの世界が大人になって自分の中で一つになってつながったような感覚を感じたものである。
人生には偶然と思っていたことが、実は必然性を帯びていたことに気付くことがあるものである。
 

「イタリアの墓」

 
 実際、イタリアに行って古代の墓を幾つも見てゆくと、少年時代のような恐怖心というものがいつの間にか消えていることに気付いた。
タルクィニアというローマ以北の町にあるエトルスキの墓は世界遺産に登録されていて有名になっているが、通りすがりの観光客なら先ず行かないであろうと思うような墓にも行った。
マルツァボットという、第2次世界大戦時にナチスの空爆を受けたことでも知られている町もまたエトルスキの町である。
渓谷の丘陵の開けた場所に、まるで京都のように町が通りで区画された小さな遺跡がある。
ここまでなら誰でも古代の美しい渓谷にある町だけで済んでしまうが、私は墓を求めた。
あったのである、墓が。
しかも渓谷の断崖近くに。
墓というものは、古代において、大抵町のはずれか外に作られていて、ここもその例に漏れなかった。
墓石が散らばっている中に、ひとひとりが抱えるほどの円周の球体が、大小地面に転がっている風景は今まで見たことがない光景であった。
 

「マルツァボットの墓地。夢に出てきそうな墓石がゴロゴロ・・・」

「マルツァボットの墓地。夢に出てきそうな墓石がゴロゴロ・・・」

  
円墳であろうと、地下墳墓であろうと、断崖の墓であろうともう怖くはないが、現代のイタリアの墓もまた賑やかで恐ろしい場所ではなかった。
墓の中にはピラミッドのような形のものもあり、色とりどりの花や小物で墓石が飾られ、大抵開かれた空間に作られているために、明るいイメージが強いのが現代のイタリアの墓所である。
綺麗に整然と墓石が並ぶ墓場は、日本のような湿潤な空気ではなく乾燥した空気に包まれているので、早朝などに行くと清々しい気持ちになる。
日本ではあまり墓場で開放感を感じることはないであろうし、傾いた卒塔婆で、何やら朽ちて古びた墓場のイメージなどといったものはここでは沸いてこないのである。
 
「現代のイタリアの墓地。色鮮やかな花が添えてある公園のようだ

「現代のイタリアの墓地。色鮮やかな花が添えてある公園のようだ

 

「下田パワースポット」

 
 閑散とした港町のお寺からはじまり、京都の密集するお墓、四谷の「お岩稲荷」と「伊衛門神社」、イタリアの古代と現代の墓所へと導かれるままに墓、墓所というのを見てきたけれど、下田に来てもうこうしたものとは巡り会わないであろうと思っていた。
ところがである、この下田というところは小さな町に神社仏閣が意外に沢山あることに気付かされた。
お寺と神社が隣同士で建っているのは何だか京都の様でもある。
しかも、幕末のアメリカ人とロシア人の墓もあるので自分の中でまた新たな墓の縁を感じる。

何よりもこの地に因縁を感じたのは、了仙寺であった。
山門からアメリカン・ジャスミンの植え込みのある参道を抜け堂宇左手の奥に、古墳時代の洞窟墓があり、外からその一部を見ることができる。
副葬品はベイステージのハーバーミュージアムで鑑賞でき、勾玉が出土していることから被葬者はこの地の有力者であったのかもしれない。

そこで私が興味をひいたのは、この寺のある場所のことである。古代から寺の建立を経て、現在までこの場所が墓所として存続しているという事実である。
今でいう「パワースポット」である。
下田でついに古代と現代の墓を同時に見る幸運に恵まれたのである。
どうやら、私は、新たなパワースポットに導かれたようである。
 

「パワースポット了仙寺の古墳時代の洞窟墓」

「パワースポット了仙寺の古墳時代の洞窟墓」

 
 
父は逝ったが、彼の墓は京都のお寺の集合墓である。
一つの仏塔の中に他の人の骨とともに父の骨も眠る。
母も私もこの墓に埋葬されることを願っている。これまで多くの墓に出会ったものが墓を持たない生き方をしている。
 
これぞ、本当の「はかない」話である。

コメントする

岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。