第32話われらの「ヘダ号」
* 史上最も劇的な外国人と日本人との共同作業
「コレデ、クニニカエレル。アリガトウ」
「こちらこそありがとう。いい旅を」
そう言って、ロシア人と日本人の大工が握手する。
古来よりわが国には、渡来人として外国人が訪れ、日本人と交わってきた。
江戸時代は、鎖国体制をとり、長崎の出島が欧米ではオランダ人だけを受け入れていた。
そこでは、文物の交換、情報の交換、知識の交換があったであろう。
ただ、近代までの日本史の中で、外国人と日本人が協力して何かを作り上げる、と言う話はあまり聞かない。
そこで、下田に来航したロシア艦船の乗組員と日本人が1隻の船を一から造り上げたというのは大きな出来事ではないだろうか?
* 「ディアナ号」の来航
1854年12月13日、日露和親条約締結のために来航していた、ロシアのエフィム・プチャーチン提督の乗る「ディアナ号」は、下田で、停泊中に、安政東海大地震に遭遇、船が回転するほどの衝撃を受け、破損した。
修理のために、戸田村に向かうが、沖合で今度は嵐に遭い、航行不能に陥り、1855年1月7日沈没する。日本人、ロシア人乗組員は戸田村に避難する。
何故、戸田に向かったのか?
当時は、クリミア戦争が勃発していて、英仏の艦船から逃れる必要があり、幕府側も下田での長期停泊を嫌がっていたことも理由による。戸田の地理的要件は、下田ににも近く、修理、造船に適した場所であったためである。
* 「ヘダ号」の建造
ロシアは1月12日に早くも新造船建造の許可を幕府から取り付け、建造を開始する。
日本からは、資材と人夫が提供され、ロシア人少尉とモジャイスキーが設計を担当し、日本側は江川太郎左衛門と川路聖謨が責任者に充てられた。
船は2本マストの「スクーナー」(schooner)と呼ばれるもので、幕府はこれを「ヘダ号」と名付け、戸田の「君沢」での製造により、同形船を「君沢形」(きみさわかた)と呼ぶようになる。
まず、砂地に船台を設けて船体を造っていった。
日本側の人夫は、最初は洋式の建造法に慣れていないため、ボルトひとつ締めるのに時間がかかったようだが、木材の加工では日本の墨壺が大いに役立った。
全長24.6m、甲板長21.8m、幅7m、深さ3m。排水量87.52トンあるいは100トン。
船には火砲の設置場所もあったが、その後船は主に海軍の航海練習船や運搬船に使用された。
幕府は、「ヘダ号」建造許可の15日後の1月27日に戸田にて新造船1隻の建造追加を指示している。
どうも幕府側は、この機に乗じて新造船を造り国力を増そうと考えていたようで、その証拠に、この「君沢形」船は戸田にてその後、この1隻を含めて6隻造られ、隅田川の石川島造船所でも4隻が製造されている。
* 「ヘダ号」のその後
1855年4月26日、進水式を迎え、5月2日には下田を出発、プチャーチンは6月20日にはロシアのニコラエフスク港で下船して帰国を果たす。
契約通り、「ヘダ号」は船員帰国後に日本側に譲渡された。
その後の「ヘダ号」は、函館での戦役に駆り出されているが、1872年(明治5年)には、函館港で廃船となって停泊しているのが目撃されている。
「アア、アノコロハ・・・。ナントカノコシタイ・・・」
(建造時ロシア側責任者、コンスタンチン・ポシエト少将)
その声もむなしく、「ヘダ号」のその後の消息は不明となる。
日露の合作の作品は、あの映画「戦場にかける橋」の橋のように、歴史上から消えていったのである。
at 5:06 PM
鎖国体制時の来訪者というと、今再放送中の「新必殺仕置き人」の寅(ミスタータイガース!)の用心棒兼殺し屋の死神(河原崎建三氏)が、子供時代に旧ロシアのアムール川近辺から流されてきたギリアーク人という設定ですね。彼が普段から目につけている遮光板はエスキモーと同じくクジラ漁の際によく海の反射を避けるために用いられたものだそうで、そのため殺しの必殺技も「クジラ漁の銛」で体を貫く、という豪快なものでした。
鎖国というと全くの完全に閉ざされた状態を私などは勝手に想像してしまいますが、長崎出島以外にも対馬、薩摩、松前のようにいろいろな外国・異文化との交流があったのかも知れないですね。
at 5:14 PM
中島さん、コメントありがとうございます。鎖国下であっても、末端では交流はあったようです。その逆に、漂流民を殺すという話も多く残っています。鎖国の功罪というものがあるようです。野人
at 11:32 PM
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