第5話異国の門を叩くもの 後編

アメリカ横断鉄道と太平洋航路

 朝早くカリフォルニア大学バークレー校の「サーザー・タワー」に登ってサンフランシスコの街を見渡すと、高いビルの先端しか見えず、霧が街を覆っています。
金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)にも霧がかかりその太いワイヤーを支える鋼材が思いのほか巨大だったことが思い出されます。
こんな魅力ある町から北東約136キロの場所に、サクラメントがあります。
カリフォルニア州の州都がおかれており、西部開拓の最終地点のひとつです。
アメリカがメキシコから勝ち得たこの土地は、1849年に金鉱脈が発見され、多くの人を引き寄せました。

 

ゴールデンゲートブリッジ

 
 大きく濁ったサクラメント川が流れ、市内にはネイティブ・アメリカンズ、西部開拓民の生活ぶりが見学できる施設があります。
そこには、江戸時代の街並みを再現した東映太秦映画村のように、西部劇で見かけるような町が復元され、当時の服装を身につけた人々がウロウロしていました。
売店も当時の景観に完全に溶け込み外からではそれとはわかりませんが、皮革製品などが売られ、まるでパイプの表面の木目のような美しい財布を購入したのを覚えています。
 

33年前の筆者と金門橋

写真は33年前の筆者と金門橋
 
 この町から、セントラルパシフィック鉄道が敷設され東進し、東からはユニオンパシフィック鉄道が西進し接続します。
1869年5月10日アメリカ大陸横断鉄道が開通、1876年には最初の特急列車がニューヨーク―サンフランシスコ間を83時間39分かけて走りました。
東からの鉄道にはアイルランド移民、南北戦争の退役兵、モルモン教徒などが労働力となり、西からの鉄道では中国系移民がこれを担いました。
中国系移民の獲得が日本を経由して中国に乗り出すアメリカの政策のひとつであり、この労働力を獲得するには鉄道敷設着工から10年前に、まず日本を開国させるのことが急務であったわけです。
 
 1914年8月15日にパナマ運河が開通するまで、この路線を経由する太平洋への抜け道が最短であり、カリフォルニアの町がアジアに向けて人々が出入りする玄関口となりました。
アメリカ合衆国は南北戦争もひと段落し、国内が政治的にも経済的にもまとまりのあるものとなってゆきます。
 こうしたアメリカ合衆国の礎はアメリカのアジア戦略が関わっていました。
経済市場の開拓として世界が躍起となってアジアにやってくるわけですが、アメリカはヨーロッパにない新世界としてその国力の増強に邁進したのです。
アメリカ(東部海岸沿岸地域を基点として)・太平洋ルートの独占。
これが、かのペリーが日本を開国させアジアにやってきた理由の根幹であり、指導部の青写真であったのです。
指導部のアーロン・パーマー(1778年/1779年~1863年)は「対日戦争計画書」(1849年)なるものを当時の国務長官に提出しているほどで、いざとなれば日本との交戦も辞さぬ構えでした。
東洋の真珠たる日本を如何に取り込むかということこそ最大の関心事であったのです。
 
 太平洋をめぐるダイナミズムの中で、日本は開国することで世界の情勢に適応してゆこうとします。
開国の最初としてアメリカを選んだのは太平洋という新たな世界航路に日本が気づいたからかもしれません。
そして下田開港は、太平洋に面した、半島の小さな港町がアメリカという大陸と接続した瞬間だったのかもしれません。

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。