第1話「異国のスピリッツ」

アメリカ人のスピリッツ(精神)と日本人のスピリッツ(精神)、酒が照射する日米の顔

日本側から、ペリーの来航、タウンゼント・ハリス(1804年~1876年)の来日の宴席で供されたのは、「保命酒」(「十六味地黄保命酒」)という江戸時代の瀬戸内海地域で造られていたお酒です。 味醂と地黄、桂皮、忍冬など16種の生薬類を加えて作られた甘いお酒です。 アルコール度数は14パーセントで、生薬の臭いはさほど強くなく、あっさりしていて飲みやすく、舌を転がすとまるで蜜のような味わいを感じます。。 現在では、保命酒で作られているノンアルコールのアイスキャンディや飴玉も発売されています。 では、当時の下田をはじめ日本には「保命酒」以外で、ラムやテキーラのような強いお酒はあったのでしょうか? ご存知の灘や伏見のお酒(清酒)は海上から波に揺られて各地に広がり、最終的に、人々の口に入る頃のアルコール度数は4パーセントから5パーセントだったようです。何かきの抜けたソーダーのようです。 これより度数の高いものでは、九州地方や沖縄地方で造られていた焼酎、糖蜜の焼酎や泡盛がありました。それでもこれらの度数は20パーセント以上のものでした。 「保命酒」は原料に味醂や米麹などを用いて造られ、一般的に広まった清酒と違い、お公家さんなどが愛飲した高級なお酒でした。開国の宴席では賓客用の食前酒とされ、度数が高くても普通に飲めるものではなかったのです。

保命酒

開国の宴席では賓客用の食前酒として用いられた「保命酒」

  日本人がラム程ではないにしても、糖蜜焼酎ではなく、度数の低い清酒を好んでいたというのは面白い。 この清酒、現在では日本のみならず、海外で生産プラントを立ち上げ販売数を増やしています。 かれこれ33年前にアメリカ合衆国カリフォルニア州を訪れた時に、サンフランシスコ近郊の某日本酒造メーカーの工場を見学したことがある。タンクの表面が鏡のように我々の姿を映し、清潔感があり、電灯がまぶしく白く輝く施設内で、アメリカ仕込みの日本酒を鼻と舌に通してみた。甘いフルーツのよう米の香が鼻を抜けてゆく。 甘いといっても香りのほうで、酒躯(ボディー)はしっかりしていて未成年ながら酒を知ったような気分になったのでした。 日本で好まれていた清酒は、海を渡り、異国の地で広がり始めていたことをこの時実感することとなったのでした。 日本酒はもう歴とした国際ブランドなのです。アメリカ人の血にもこの酒の何滴かが浸み込んでいるかもしれません。 アメリカのスピリッツと日本の清酒。乾燥した土地と湿潤な土地でできたお酒は、それぞれの食文化の違いや自然に対する接し方、行動や思考・感性と関わっていると思われます。 北米アメリカが荒野を開拓し西進した原動力となる征服欲と未知なるものへの好奇心 ― この力からは突進するような、強烈な鼻をつくような、パンチのあるお酒が感じとれます。 日本の、海に囲まれた環境と緑豊かな山林からの恩恵を受けた想像力。そして島国に起こっていた鎖国を解こうとする動き ― この開国までの日本からは、米などの甘さと旨味をたたえた芳醇な香で、緩やかに酔いが回るようなお酒をイメージします。 黒船上で、歌あり踊りありのミンストレル・ショー(minstrel show、白人が黒人の真似をして黒人を揶揄した歌や踊りを行った大衆演劇)を観ながら、日本人とアメリカ人は大いに盛り上がりました。 酔ったせいで足をふらつかせた日本人とアメリカ人。酒が彼らを近いものしました。酔いにまかせてペリーの肩を組んだ日本人もいたとか・・。 宴席でこうした酒が一端喉を通ると、それぞれ違った言葉、出生地、個性が激突するようになると思いますが、この時の酒はそうならなかったようです。 ふたつの国の人々が酒を通して共感する。 例え双方に大きな違いがあるとしても、「おう!」「ヘイ!」と呼び交わす瞬間、心が国境を越える・・・。これもお酒の大きな力です。 では、テキーラで乾杯!!!

著者おすすめの店

DJ’s BAR JaJah

Jajah カクテル ペリーロードにある小さなbar

こぉひぃはうす 可否館

米領事も飲んだ保命酒をつかったカクテル「ハリスの夢 … 700円」が飲める

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。