第11話歴史のかたち

「歴史演談動読劇」。演劇県、静岡がしかける文化活動。歴史を伝える試みにある意味と危うさを探る。

 

演劇県静岡

 
下田に住んでいるので、いろんな催しや行事、名所を見ようと探すと、奇妙なことに気づいた。
静岡県には公立の博物館がないのである。これに対して、演劇に県が力を入れていて、公立の舞台芸術センター(SPAC)がある。
歴史的なものを伝えるのに一風変わったスタンスなのである。
 
「歴史演談」
 
SPACのセンターの役者、奥野晃士さんが下田で「動読劇」という舞台芸術をやるというので観にいってきた。
 

SPACのセンターの役者/奥野晃士さん

SPACのセンターの役者/奥野晃士さん

 

唐人お吉が眠るとされる下田の宝福寺の堂宇は、金色に輝く装飾の中で、多くの観衆で埋め尽くされた。
「村松春水と伊佐新次郎」では、シンセサイザーをBGMにもう一人の主役、萩原和美さんが登場し、台本を手にしつつ、簡素な動作表現だけで舞台が進行する。
お吉が伊佐の居宅から去る場面は、秋風が肌の熱をさらってゆくような物寂しさが込み上げた。
 

もう一人の主役/和美さん

もう一人の主役/萩原和美さん

 

「山之内容堂と勝海舟」の話では、杯を酌み交わす二人の言葉と一挙手一投足がそのまま観衆の想像の翼を刺激したに違いない。
 

石垣直樹氏の「お吉と龍馬」の本からの抜粋も披露され、朗読されることで広がる視覚的な鮮明なイメージが残る。
 

「歴史を伝えること」
 

いずれの主題も簡素な仕草と朗読が小説や歴史書の内容であることに注目したい。
 

我々は学校で年号や事件を丸暗記するかたちで、でも時にはエピソードを憶えて、歴史を知っている。
でもそれだけが歴史なのだろうか?
数字や単語だけの世界では、生きた人間の肉声や歴史事件で起こる音、色、におい、感触までは追体験できない。
誰も見たこともない、聞いたこともないことを表現する世界が求められている。
これほど歴史ものが廃れることなくメディアで再生産されるのは、その「なまの」歴史を埋め合わせようとする現代人の絶え間ない欲求なのかもしれない。
 

注意しなくてはいけないのは、こうした歴史の心に響く伝達が、事実と異なり、信じ込まれる点である。
これは悪用される可能性がある。
そこで重要となるのは、作り物と本当のこと、虚構と事実の両方を理解してのぞむことである。
例えば、ハインリッヒ・シュリーマンの「古代への情熱」という本をご存知の方も多いだろう。
これは考古学と書物の場合だけれど、シュリーマンが初めて伝説で伝わるトロイアを発見したと言うのは嘘である。
発掘したものは、トロイア戦争から1000年も前の遺跡であった。
情熱も捏造される恐れがある。
「本物」、「事実」とは如何なることなのか一考させられる。
 

それでも今回の公演から考えさせられた。
浪曲や大衆演芸、朗読、演劇が歴史を伝える有力な方法であり、歴史のかたちなのだ。
静岡は演劇県である。
そこで、これから下田でもどんどん演劇が盛んになればいいが、演じる人間とともにこれを追体験する観衆の歴史に対する意識の熟成が問われているのも確かである。

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。