第22話~運命の黒船~(漂流者サム・パッチ)
遣隋使や遣唐使のように歴史に残る大航海はほんの一部の海と人との歴史である。
海で働く人間が不運にも、流され、遭難し、異国の地にたどり着く話は歴史の裏面史におびただしく残っている。
ここにとりあげる男は、ジョン万次郎のような日本人に多大の影響を与えた偉人ではなく、要人の後ろに絶えず控えて、幕末明治の世界を五感で感じていた男のことである。
「流される」
仙太郎が、広島の生口島で生まれたのは1831年頃のことである。
11歳頃には母親を亡くし、翌年には父、熊蔵も他界する。
叔父の家に預けられ、19歳の時(1850年)、平底帆船「栄力丸」のコックとして大阪を出帆する(10月20日)。
熊野にて彦蔵が加わるが(10月27日)、この彦蔵こそ、後にカトリック教会に改宗し、アメリカ合衆国のリンカーン大統領と会見する人物である。
江戸につき、再び大阪に向けて出港(11月30日)、12月2日、遠州灘にて嵐に遭遇し流される。
1851年1月22日、「栄力丸」の17人の乗組員は、アメリカ合衆国の商船「オークランド号」に救出される。
アメリカ人たちは船員を手厚く歓待した。
でも、出された料理には閉口したようだ。
特に、パンの焼きあげの臭いは悪臭のように感じられた。
仙太郎たちはほぼ裸一貫でアメリカと付き合うことになった。
「初めて見る世界」
1851年3月4日、江戸を出て遭難し、100日間の海上生活の末17名はサンフランシスコに到着する。
着岸後、彼らは直ぐには船外に出なかったようだが、アメリカ人の仲間に促されて、サンフランシスコの町中を見て回った。
江戸時代の町並みとは全く違うサンフランシスコは恐らく彼らには近未来のSFのような町に見えたに違いない。
そうこうしていると、地元の資産家たちがパーティーを開く会場に引っ張り出された。
女性の肌をあらわにした服装に新渡戸稲造が述べたように彼らアメリカ人を野蛮人だと感じたりもした。
彼ら一行は様々なものを見た。
農業品評会をはじめ、露店で出ている食べ物も好奇心で口に運んだ。
町の大火にも遭遇した。
当時のゴールドラッシュに沸く雰囲気を味わったのだった。
アメリカ側にはこの一行を次の一手として日本を開国させるための先兵にする考えがうごめいていた。
交渉上有利に働くかもしれないの日本人たちはマスコミの格好のネタになった。
「黒船とともに」
仙太郎が、ペリー提督の航海日誌にサム・パッチとして初めて登場するのは1853年4月9日のことである。
サム・パッチという名前は、引田天功のようにナイヤガラの滝から樽に乗り落下して生還するようなパフォーマーのことだ。
仙太郎がアメリカ人の間でたくさんの別名を持ち呼称されていた中に、「せんぱち」(Sempachi)という呼び方があり、マストを駆け回る仙太郎の姿とこの名前で、有名なサム・パッチのイメージが重なり、以後彼のことはサム・パッチと渾名されるようになる。
17名の日本人たちは、1852年3月1日、サンフランシスコを出帆し、ハワイを通過するが、この時船長だった万蔵が死去、ヒロにて埋葬される。
5月8日、16人の日本人はアメリカ合衆国の戦艦「サスケハナ号」に移される。
8月20日、彦蔵以下3名がサンフランシスコに戻るために下船する。
1853年4月7日、サム・パッチを残し全ての日本人が「サスケハナ号」を去ることになる。
船員の仲間たちは日本への帰国への望郷の念が強く、また船内で横行していた虐待の恐怖から下船を望むものが多かった。
仙太郎という日本人だけが黒船に乗り日本へ向かうこととなった。
7月8日「サスケハナ号」と他の3隻の軍艦が浦賀沖に投錨する。
1854年2月24日サム・パッチは「ポーハタン号」に移され、神奈川に向かう。
3月6日サム・パッチは香山栄左衛門と面会するが、この時のサムはただただ土下座をして全身震えが止まらなったという。
というのもアジアの寄港地にいた日本人漂流者からの情報で帰国した日本人には恐ろしい懲罰が待っていることを聞かされていたからである。
二度、サムは日本人の役人と対面し、帰国後の待遇を保証することを告げられたにもかかわらず、彼は帰国することを拒んだ。
4月18日下田に到着、6月7日下田を後にし、9月21日再び下田に入港、10月1日下田を出港する。
帰国に不安を抱いていたために、2度の下田寄港でもサムは恐らく船内にとどまり上陸はしなかったと思われる。
一か月以上の太平洋航海を経て、サムは11月21日サンフランシスコに到着する。
「キリスト教者として」
長い日本への航海の後、サム・パッチは、ゴーブル一家の支援を得て学問的な挑戦を受けることになった。
ジョナサン・ゴーブルはサムを介してキリスト教の布教を日本でできる切り札だと考えていたようであり、サムもまたそれに応えようとし、大学に入学するものの学業にはついてゆけなかった。
事実彼が話す英語は子供並みであったと言われていた。
人間関係での確執もあり、精神的に追い込まれたサムは、入水自殺を試みるが果たせなかった。
その後、1858年3月6日、チュナンゴ川でバプテスト派の浸礼を受け、キリスト教者となる。
「再び日本へ」
1860年4月1日再び日本の神奈川に到着するが、この時には前回のようなペリーや戦艦の後ろ盾がない。
サムにまた不安がよぎる。「栄力丸」の同僚ダンケッチこと岩吉は、日本に帰国してイギリス領事館に雇われていたが、現地の女性に手を出したり、侍に罵声を浴びせたり、日本人の反感を買うような行動が目立ち、1860年1月29日領事館前で殺害される(墓は、何とあのヘンリー・ヒュースケンの近くにある!!!)。
同僚の不運を聞き尚更日本での生活は緊張の度合いが高まったであろう。
11月23日、S.R.ブラウンはサム・パッチを家族のコックとして雇う。
その後、サム・パッチの新たな雇い主がバラ家となり、6月1日には横濱に移動する。
アメリカ人の主人たちはみな宣教を主な活動としていたが、鎖国時代には厳しい状況に置かれていた。
横濱での生活も苦しいものであった。
「新時代のサム・パッチ」
日本が明治時代に突入し、政府は西洋の学問を吸収しようとしていた。
1871年10月25日、教育者であるE.W.クラークが横濱に到着、12月2日にはサム・パッチとともに静岡に到着する。
当時の静岡は徳川が下野しここに旧幕臣たちが集まり、学校を作り学問の門戸を開いていた。
クラークは大久保一翁や勝海舟の知遇を得て、生活は安定したものとなった。
ここでアメリカの生活を知り尽くしたサム・パッチがコック兼使用人として活躍することになる。
ところが、2年間の平和な時期の後、1873年12月21日、クラークとサム・パッチは新たな転居場所、東京に向けて静岡を後にすることになる。
政府は東京の一極集中化、中央集権化を図り、静岡のクラークの弟子たちを東京に招き寄せたため、静岡の学問的な盛隆が急激に下降する。
「幸福な死?」
サムは、東京に移り、その頃には日本人の妻を得たようだ。
西洋的な生活から徐々に日本風な生活が始まっていた。
西洋料理で摂取していたチアミンの栄養が急速に欠乏した。
サムは脚気になってしまった。
サムの健康は侵され、症状が重くなり、1874年7月23日、クラークは彼をを病院に入院させる。
その後、クラークは多忙となり、サムも新たな主人アーサー家のもとに身を寄せる。
サムの要望で、病院からアーサー家が住まう、当時の文部大臣、森有礼の銀座の家に移る。
1874年10月8日、サム・パッチは、この家で死去する。
享年43歳。
彼の棺の中には聖書が置かれていた。
10月9日、文京区本伝寺の墓に埋葬される。
一人の男は確かに生きた!
万次郎のように英語通でもなく、ジョセフ・ヒコこと彦蔵のように日本人であろうと願うのでもなく、二つの世界に身を委ねて、臆病ながら、逞しく、そしてしたたかに江戸と明治の代を生き抜いた男がいたのである。
at 10:41 PM
岩崎様
日米交換会の日本人側の要人のデザートに刺さっていたと言われる
それぞれの役人の家紋の入った旗のアイデアは多分料理人であった
黒船唯一の日本人のサムパッチが居たからではないかと思っています。
ペリーの周到なおもてなしはサムパッチという日本人がいたからこそ、
では。そう考えると、ミンストレルショーの1曲目の「阿保、阿保〜」
もサムパッチの意見を取り入れていたのではと思ってしまいます。
日本人でありながらペリーに最大限協力したサムパッチだからこそ、
日本人に合う事に更に怯えていたのではないかと思うのです。
at 6:47 AM
航海料理人として日本とアメリカを行き来、様々な想いで何百回??太平洋上で日の出日没を見た事でしょうか?その想いは、お里のない孤児の身の上から、目の前の環境に必死に適応し、抗うこと無く逞しく生きる術が備わっていったのでしょうか? 力強い生き様に拍手!
アメリカ人との交流を楽しむ現代からは想像つかない、歴史ストーリーを垣間見れて
面白かったです。
at 10:21 AM
原さん。コメントありがとうございます。私見ではご指摘の通り、サム・パッチの意見というのはあったかと思います。それゆえ、彼は特別な存在であったのでは・・・。恐らく、彼はミンストレルショー聴いたと思います。それだけに彼には興味が尽きません。
at 10:27 AM
実花さんコメントありがとうございます。我々が異国に行き味わう、数百倍のインパクトがあったと思います。それでも彼は合衆国の要人には大切な存在でした、最も母国に近い料理を作れた人間として。彼は、コツコツやるタイプです。影にいて主張しすぎない。それは外国にいる外国人には非常に重要だったのですね。憩いを与えてくれたのでしょう。今回は、僕自身非常に勉強になりました。ありがとう、と言いたいですサム・パッチ・・・。野人
at 4:05 PM
薩摩から大阪行きの商船が漂流しロシアへわずか11歳で流れ着き、もう一人を除いて現地の警備隊に日本人全員が殺され、奴隷として飼われていたところをたまたま巡回にきた役人に助けられたゴンザという少年の話を思いだしました。
彼も世界初の「スラブ語日本語辞典」の作成という偉業を成し遂げるのですが、21歳でサンクトペテルブルグの土地に眠ることになりました。
時代の節目には、このような方々の波乱に満ちた人生がたくさんあるのでしょうね。
at 5:18 PM
中島君、コメントありがとう。ゴンザの話は興味深いです。日本は南北に長く、海に囲まれ、このような話はおびただしくあるはずです。もう一つ興味深いのは、国際情勢から、彼ら漂流者が「周縁」(マージナル)から日本の文化や情報を支えたということです。辞書の編纂は、サム・パッチが会ったマニラの日本人漂流者の同志たちが関与しているし、聖書の日本語訳にも彼らの参与がなければ成しえなかったものです。下田という一地方にいながら、深く歴史とリンクしている事実に改めて感動しています。これからも、忌憚なく君の意見を聞かせてください。お願いします!ありがとう、中島君。野人
at 3:56 PM
よく調べて、凄いですね。
その人の人生で、主役はその人一人、自分を大事に生きた波瀾万丈の人生、ドラマと思います。密度の高い時間を生きて、ルーチンワークではない充実の人生を感じます。ペリーだけしか黒船のことを知りませんが、色々なことの中で黒船があったんですね。燃えて生きる、今なら、カンブリア宮殿に呼ばれるでしょう(笑)貴重なお話をありがとうございます。
at 1:16 AM
堀田さん、コメントありがとうございます。サム・パッチ、調べていて増々興味をひかれる人物になりました。17歳の時サンフランシスコを訪れたことを思い出しました。それにしても、この人物、臆病ながら、どこかで自分を信じて運命を受け入れていたように思えます。よくもまー、ひとりで船に乗ったものですよ・・・凄いです。これからもよろしくお願いします。素敵な写真をまたお願いします。どこかでまたゆっくりお話しいたしましょう!ありがとうです。野人