第33話髪結いは語る
「散切り(ざんぎり)頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」
旧体制、江戸幕府の男の象徴、ちょんまげを落とした姿を見て、昔の人は皮肉をきかせた一句を残しました。
江戸時代の男社会とちょんまげ
ちょんまげは兜をかぶると蒸れるので頭の一部をそり、残りの部分を束ねて、あの形にしたものです。
江戸時代では、成人した大人がこの形の髪型を強要されました。
今でいう法律で縛られたような、厳しい習慣です。
ですから、明治になって、また法律によってこの習慣を禁止するお触れを出します。
1871年9月23日(明治4年8月6日)、散髪脱刀令(断髪令)の太政官布告が出ます。
明治天皇も1873年(明治6年)断髪をしたことから、庶民も洋髪や散切り頭に切り替える人が多かったようです。
このように、江戸時代と明治時代の大きな習慣の変化は、男性の場合、その髪型に大きな変化がありました。
思うに、男性社会であった江戸時代に、ちょんまげによって男性身分の意識的な「しばり」を強いたわけですが、これは制度として管理された社会を意味しているのではないでしょうか?
「桃割れ」
これに対して、この時期の女性に対する、髪型を規制するようなものは、新旧合わせても存在しませんでした。それは緩い習慣として続きました。
ですから、必然的に、流行り、流行の髪形も誕生しました。
今でも、11月の七五三の時に、女の子にかつらをつけますが、あの髪の髷は、「桃割り」と呼ばれる形です。
図1と図2に見られるように、頭の頂の髷の部分に特徴が表れていて、髷が円形状をしていて、結い元は「鹿の子」という道具で留められ、結い元が見えないように飾られています。
この形は、江戸の後期から昭和まで長く好まれ、町人の娘、七五三でも見られるように幼い娘に流行った髪型でした。
「唐人髷(まげ)」
幕末から明治に、流行った髪型として、「唐人髷(まげ)」というのがあります。
吉原の花魁が結っていたことから、「桃割り」よりも裕福な家庭の主に10代の年上の娘に流行ったものです。
髪型は、「桃割り」とよく似ています。
図3と図4に見られるように、よく見ると髷の部分が違うのがわかります。
髷の部分も、鹿の子の飾りで隠されている部分は、結い元が八の字に結び留められています。
一番特徴的なのは、髷の上部が、銀杏型、蝶々型に整えられていることです。
「桃割り」のように、円形をしていないのです。
このように、「唐人髷」は技巧的に複雑なので技量を要しました。
斎藤吉と唐人髷
お吉さんこと、斎藤吉は、1867年(慶応3年)大政奉還の年に、横濱で幼馴染の鶴松と再会し、同棲生活をします。
その時に、横濱は、まさに開拓時代で、多くの下田の人間も開港に尽力するために、コミュニティーを作り、生活していました。
そして鶴松は船を造る大工として働き、お吉はこの「唐人髷」に興味を持ち習得に腕を磨きます。
4年後、ふたりは横濱を後にして、下田に戻ります。
帰郷の理由はいろいろ考えられると思いますが、鶴松が船大工として仕事についてゆけなくなったからではないかと考えられます。兎に角、造船の技術も下田の田舎でやったのとは違い、高度で、迅速さを要求する仕事でしたから・・・。
お吉の髪結いの店
一方、お吉は、下田で髪結いの店を出します。
横濱で培った「唐人髷」を売り物に、起死回生を図りにかかります。
鶴松は、酒もやらず、博打もやらない男でした。どう血迷ったのか、ほかに女をつくります。お吉とも疎遠になり、彼女は徐々に酒におぼれるようになります。
結局、同棲生活は解消することになり、その後すぐに鶴松は亡くなってしまいます。
お吉は、鶴松の死後、芸者となり三島へ向かいます。そして、また下田に戻ります。そして今度は、店の女将となり、「安直楼」を切り盛りすることになります。
「唐人」の意味
「唐人髷」の「唐人」は、この髪型とよく似た髪型を当時の中国人がしていたことから呼ばれていたものです。
当時、外国人と言えば、長崎のオランダ人、中国人、朝鮮人でした。
ですから、「唐人髷」というのは異国趣味なのです。その時代に最先端の髪形と異国情緒とが結びついた流行りものだったのです。
そこで、お吉も、自分の店の宣伝のために、「お吉の唐人髷」を流行り文句にするために、「唐人(髷)のお吉」、つまり「唐人お吉」と次第に言うようになったと考えられます。
村松春水や十一谷義三郎が、このこと知ってフィクションとしてお吉像を作り上げたのです。
しかも、彼らは、「唐人」を蛮族、卑しい人間、獣にも匹敵する人間、哀れな人間、というような意味付けを持って使用しました。
ここから、お吉さんの実の姿が伝わらなくなったのです。
晩年のお吉
それでも、お吉さんが、下田の人間から反感を買うようなまねをしたことも事実でした。
それは、「安直楼」を閉店し、店の仕入れの付けを返金できず、天城越えをして、病んだ体を癒しに行くときです。湯治に行くだけの金があるのなら返せという人がいたのです。
ただ、これもお吉さんからしてみれば、「安直楼」では雇われ女将として働きいただけで、実のところは、持ち家を売り、子供たちから心お込めて、湯治をお吉にすすめたことでしたが・・・。
at 3:24 PM
「粋で、いなせないい男」の「いなせ」とは鯔背と書くそうですね。昔の日本橋魚河岸の若い衆がしていたちょっと跳ね上がったような髷のことで、鯔(ボラ)の背中の形に似ているところから今でいう「イケメン男子」の象徴だったそうです。
野人先生の説明にありました、強制されたチョンマゲですが、その不自由さのなかで「粋」と「いなせ」を演出し楽しんでいた江戸っ子のしたたかさ、たくましさを感じますね。
at 8:46 AM
中島さん、コメントありがとうございます。そうですね、江戸時代の粋な世界は、閉ざされた感がありますが、そこで逞しく生きていた人々もいるわけです。で、どうしても江戸。京都や大阪、そして地方の町々はこの粋さ加減はどうなのか気になります。江戸偏重な時代劇になりがちなこの頃ですが・・・。地方が見えない江戸時代。もっと語られていいのでは?
野人
at 8:12 PM
江戸に向かう前に船乗りさんたちは髪を整えて、下田の芸者衆などが髪を整えたので、髪結い、床山が多い街になったんでしょうか。賑やかな下田が再来すると良いですね。
at 12:10 AM
髪結い様、コメントありがとうございました。床屋が多いこともさることながら、銭湯も多かったようですよ。港で働く人たち、漁師の方、みんな汗を流して、町中へ繰り出す。男衆はもちろん酒と女というわけです。ペリーロードはちょっとした色町でしたから、明け方近くまで人でにぎわったそうです。昭和に入って赤線廃止令が出るまで、この辺りはにぎわったそうです。色気の抜けたペリーロード界隈、いな町中自体は、高度成長期にでも、人ではあったようです。今では、猫しか見ませんが(笑)。