第8話~それでも人はやってくる~
裁判所や県の行政機関も備え、人口減少、経済不振、失業、ごみや景観の問題など日本のどこの町にもある悩みが多い、下田。
そんな下降気味の雰囲気でも人はやってくる。
何にひきつけられるのだろうとここに住み始めて思うのである。
「下田ゴールドラッシュ」
人の欲望や感情を満足させる何かが下田にはある。
たった一つの鉱物、「黄金」が人をこの地に呼び寄せた歴史があったことにまず驚かされた。
河津に縄地というところがあり、江戸時代には有力な金山があった。
幕府の経済を支える領地として、ここに人々が参集してきた。
いわば、ゴールドラッシュである。鉱山労働者は様々な人を呼び寄せる。
商人、役人、職人などなど集まった人々はそこに町を作る。民家は千軒、五千人以上の人間が住み始めた。
黄金の魔力とともに、男たちは女の魅力にもとりつかれた。
縄地の南隣の白浜の奥に「女郎山」というのがあって、男たちは女郎を求めて通ったという。
この女郎屋は慶長時代から百年以上続き大いに繁栄したらしいが、鉱山閉鎖で、人口が減り、花柳界も寂れてゆく。
鉱山事業自体は昭和三〇年代後半まで続いたという。
「情欲が町を変える」
「黄金」や女性にひきつけられた人間の欲望は人ばかりか町の景観を変えることにもなった。
下田の町は、先ず、花柳界のあった繁華街が今の中島橋交差点からマイマイ通りに入ったところ一帯にあった。
江戸初期、今の駅のタクシー乗り場には伊豆石の集積場があり、新田(「新しい土地」の意味)あたりには船が出入りしていた。
「どこ行くの?」と言えば、「いいとこ新田饅頭屋」(「饅頭」とは隠語で女陰を指し、「饅頭屋」とは遊女を置いた置屋のこと)と答えるようなやりとりが、今でも地元っ子のユーモアとして残っているが、これなんかはその歴史の一端を伝えているものだ。
これが江戸の中期・後期に入ると、繁華街が弥治川周辺に移った。
下田の町の現在に残る古い景観の基が作られる。
今のペリーロード近辺には花柳界が作られ、漁師、港湾労働者などが一風呂浴びて、酒を飲み、色町に出て行った。
このあたりに、銭湯があったのも繁華街の証であった。
昭和三十二年売春禁止令がでるまで長い間色町は人々をひきつけていた。
「下田フィーリング」
「黄金」が人をひきつけ、情欲が町を作り、絶えず人の往来があった顔が下田にあったのだ。
幕末には異国の人が訪れ人が集まり、戦後から復興し日本の高度経済成長で観光業が潤い人がドッとやってくる。
そして、今は町に閑古鳥が鳴いていると人は言う。
それでも人は伊豆、下田を忘れずやってくる。
昔のことをよく思う人は今のことを嘆いて、人が来ないという。
沢山の集客を望むなら、京都や大阪、そして東京に任せればいいではないか?
下田にはそこにしかない魅力がある。
人はそこに吸い寄せられてくるのである。
私の知り合いに下田に部屋を借りて東京と下田の二重生活を楽しんでいるひとがいる。
下田も生活の一部の場にしたい人がいるのである。
その理由は簡単に表現できないけれど、「黄金」でもなく、女郎でもなく、歴史や文化、自然、そして何よりも人が放つ総合的なフィーリングなのかもしれない。
そうだ、下田というのは、ここを人がいいなと思わせる何か居心地の良さを感じさせるところなのだ。
心地よさは伝播する。
気持ち良さは人を引き寄せる。
下田はそんな磁石のような場所である。
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