第4話閉ざされたバザール~欠乏所~後編

「欠乏所」。その奇妙なバザール。

マックスバリューの隣、「平野屋」さんに「欠乏所」の跡を示す碑がひっそりと建っています。

捕鯨船も、ペリーの船も、大海原を航海してきて何処かの港に寄港し、薪、水などを補う必要がありました。彼らにとっては欠乏所があるのとないのとでは雲泥の差があったのです。

黒船は足りないものを下田の「欠乏所」で調達していたことから、双方の国が品物を購入・売買していました。つまり、日米の貿易がはじまったわけです。

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 でも、何故「欠乏」なのでしょうか?
「補」や「給」や「助」、または「交」の字が使われていてもよいように感じます。

「欠乏」とは幕府側ではなく、米側についてのことであり、ここが急場凌ぎに作られた感があります。
幕府側のアメリカへの対応の動揺がうかがわれます。

アメリカ人は、決められた範囲だけを歩き回れる遊歩権をもっていましたので、欠乏所以外の店でも商品を購入することがありました。
そのため一地域だけの欠乏所での貿易がこれ以上に拡大するのを幕府側が危惧していました。
また幕府は欠乏所での取引の物品を予め限定しました。貿易といっても、制限つきのやり取りだったのです。

「欠乏所」が限定的な窓口であったことと今の下田が「観光」だけに頼っているのは似ているのかもしれません。入れ物に人を詰め込むのではなく、「交流」という玄関口がこの港の姿であったはずです。

観光も含めた「交流」の場として下田が変わってゆくことを切に願います。

 この対応に対して、アメリカ側は着実な日本開国のシナリオを持っていました。
先ず、ペリーの乗ってきた蒸気船は当時としては最新鋭の船です。
ペリー自身、蒸気船のスペシャリストで、「蒸気船海軍の父」とまで呼ばれていました。これをもって日本側に開国を迫れば、誰でも一目で分かる、威圧感を印象付けられます。

蒸気船は「砲艦外交」の主役でありました。このシナリオでは、ペリーをはじめアーロン・パーマー(Aaron Haight Palmer 1778年または1779年~1863年)など対日関係者が事前調査を参考にして、日本の国民性、宗教、文化から自然に至るまで詳細な研究と報告がされていました。

アメリカが開国を迫り、下田を開港させ、欠乏所をつくるのは時間の問題だったのです。

 安政6年(1859年)、「欠乏所」はたった5年でその役目を閉じましたが、「欠乏所」の人員、商人も機能も横浜の弁天町の下田長屋に移されます。
それでも、その後の日本と異国との交易は盛んになり、その繁栄のひとつの窓口が下田にあったというのは確かなことなのです。

 最後に、マシュー・ペリーについてひとこと。

彼は、1794年、ポートアイランド州のニューポートで生れますが、晩年はアルコール依存症、痛風、リュウマチを患っていました。

時に、贅を凝らした珍味に舌を鳴らし、時に苦々しい魚の臓物や干物なんかを口にしていたのでしょうか・・・。

そして一杯、また一杯という風に杯を重ねたのではないでしょうか・・・。

日本から帰国するのが1854年、4年後の1858年にニューヨークで亡くなります。4年の間に「遠征記」を書き記しますが、日本へ行ったのが最後の航海でした。

あのジョナサン・スウィフトのガリバーも立ち寄ったという日本。ペリーもまた西洋を代表するガリバーであったのです。

 

欠乏所跡の雰囲気を残すレストラン平野屋

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。