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第1話「異国のスピリッツ」

 

西部開拓時代の米墨の歴史を映すテキーラと日本人がその味を認めた異国のスピリッツ、ラム

  今日は、ラムかテキーラでいこうー。酔いにまかせて、歴史に思いをはせてみると、ちょっとした異国の姿がたちぼる。 時は、ちょんまげ頭に草履履きの江戸人がいた、日本一になぞらえた富士もある、幕末の下田。 そこへ突然黒船が現れる。黒船見たさに各地から人が集まったが、日本人もアメリカ人も見るものは、はじめてのものばかり、髪型、服装に、食べ物・・・。 お酒はどうでしょうか?そこで、開港当時のお酒にまつわるお話を少し・・・。 「熊おやじ」と呼ばれたマシュー・カルブレイス・ペリー(1794年~1858年)というアメリカ人からテキーラというお酒が連想されます。アメリカとメキシコの戦争(1846年)に参加し母国の勝利に貢献したひとりのアメリカ人から、19世紀のメキシコ国産酒にたどりつく。 乾燥した風が吹き荒び、枯れ草と一緒にざっと砂ぼこりが立っていた映画の西部劇の世界が見えてきます。荒野の町でメキシコ人の呑兵衛たちは、塩とライムでテキーラをかっくらっていたのでした。 アメリカ合衆国がこの戦争で手に入れたカリフォルニアの土地では、チャップリンが映画「黄金狂時代」の中で、靴をステーキにしてモグモグ食べて空腹を満たしていたゴールドラッシュ(1848年)の姿もあります。一発当てようとアメリカンドリームをもとめていた時代であったのでした。 汗の臭いで、ムッとなる鉱山の坑道の中では、坑夫たちの爪を垢で真っ黒にしたその手の中には、失望と困苦の深い皺と大小の夢と今日一杯の酒への渇望の小さな溝が刻まれています。 砂埃をまとったフロンティア・スピリッツは、カリフォルニアを越えて、さらに今度は顔をゆがめるような舌に塩辛い味を残す海の彼方、日本に向かうことになります。 荒野で生れた酒、テキーラ(「収穫する場所」という意味の原住民の言葉からきています)。 このお酒は「竜舌蘭」(Agave Azul Tequilana)という植物から作られますが、メキシコでも「テキーラ村」とその周辺にだけ蒸留することが許されているものです。 そのアルコール度数は40パーセント前後、飲みすぎると次の日が辛くなりそうな数字です。 テキーラは、古くはスペイン統治時代から伝わっていますが、テキーラが本格的にアメリカやヨーロッパに出荷されるようになったのは開国後の1873年、日本が明治時代になってからのことです。

Jajah カクテル

切子のグラスが素敵なJajahのカクテル

  下田の「ペリーロード」にテキーラをベースに、マリブ、パインジュースのオリジナルカクテル(700円)「ニューポートカクテル」をいただける「DJ’Bar JaJah」があります。ニューポートとは、ペリーが生れた町の名前で、ペリーに因んだカクテルです。   1854年、日米の条約締結が終わり下田沖の黒船の上でアメリカ側の宴会が催されました。 この時、ワインなどのアルコールとともにラムが供せられました。 ラムはイギリスなどでは、船の機関士が高温に耐えられるようにと支給されていたほど馴染みのある酒です(でも、逆に喉が渇きそうに思うのですが・・・)。 この宴会では、ラムなどをベースにし果実、砂糖、香料で作られた「パンチ」やチェリーのリキュールが、日本人好みとして出されました(日本にも甘いお酒「梅酒」がある!)。 たとえラムに何かを加えても、もともとアルコール度数が高いので、初めて飲む日本人もかなり酩酊したのではないでしょうか。 このラム、今でも造られている黒糖焼酎とよく似た蒸留をするのですが、40度~50度(75度も!)のアルコール濃度でした。 甘いお酒を日本人が好むというのは、恐らく米の甘味や旨味からきていると思われ、料理に使われるみりんなどの調味料からも慣れ親しんだものだったでしょう。 アルコール度数の高低や呑む人が違っていても舌は同じようなものを開拓しているといえます。

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。