第17話横濱下田物語~下田の町づくりを考えるヒント~

下田の町づくりを考えるヒントの一つが、下田と横濱の歴史的な関係の中にある。今その扉を開こうじゃないか!
 

「開港都市、横濱の町づくり」
 

日本を代表する港町、横濱。
江戸時代には戸数90戸余りの横濱村という小さな村でした。
横濱は下田の閉港の後開港します。
そのため、下田は臨時的な国際港であり、横濱の前身となった港なのでした。
横濱の町は東の大岡川、西の中村川で仕切られ、関所ができたことで、関所より港側を「関内」、その外を「関外」として町の外観が作られました。
横濱の街中は幾つかの大小の運河が通り、運搬・交通に利用され、河川に取り囲まれた町だったのです。

運河開拓には労働力が必要で、横濱の町に各地から沢山の人間が集まり、この事業に参加していました。
集まった人たちは、出身地ごとにコミュニティーを作り、助け合いながら寝食を共にしていたのです。
 

「お吉のいた横濱」
 

現在の「フェリス女学院高校」の脇の階段、通称「桜坂」を降りてゆくと、小さな長屋が軒を連ねる坂に至ります。
ここは「土方坂」と呼ばれていたらしく、横濱運河建設に携わっていた肉体労働者の一団が居住していました。
住人に下田出身者が多く、「下田長屋」とも呼ばれていました。
 

土方坂。下田長屋があった元町の一角

土方坂。下田長屋があった元町の一角


 

そんな横濱が開港都市として産声を上げている頃に、下田出身の一組の夫婦が生活していました。
斎藤きちと鶴松です。
鶴松は船大工として働き、お吉は家事に専念しつつ、髪結いも習い始めます。
最初は、下田出身者の多い「下田長屋」に暮らしていたようですが、いつごろか元町の路地の長屋で生活するようになります。
お吉は、元町五丁目の米屋に頻繁に通うようになり、その界隈で髪結いをおぼえたようです。
「唐人」と呼ばれたお吉が鶴松と所帯を持ち、町衆と変わらぬ日常生活を4年間おくることになります。
 

元町にあったお吉と鶴松の居住した場所

元町にあったお吉と鶴松の居住した場所


 

「もうひとつの下田長屋」
 

「関内」にある弁天通りは、もうひとつの下田物語の舞台です。
そもそも、弁天通りの弁天とは、横濱村にあつた「洲干弁天社」に由来し、多くの人が訪れた場所で、弁天通りはその社の参道に当たります。社は、源頼朝が伊豆の土肥から勧請したといわれ、この地が古くから伊豆と深い関係があったことを示しています。
「関内」の中で、この通りが走る関内西側が日本人居住区、東側は外国人の住む「居留地」と最初は住み分けられていました。
弁天通りには下田出身者が多く住み、1865年の記録ではここの居住者161人の中で下田出身者が31人もいたとあります。もうひとつの「下田長屋」がそこにはありました。
 

「横濱カメラマン」
 

「下田からは続々移住民が入り込んで益々賑やかになった」とか、「豆州下田より移し奉る稲荷神社」があったという記録が残っているいるので、「関外」の野毛にも下田の人が多くいたようです。

その野毛から店を弁天通りに移し、五丁目横町で写真館を開業した、下岡蓮杖も弁天通りの下田人のひとりでした。
彼には日本人の弟子が多数おり、写真技術を学んでいたのですが、その中には下田出身の阿波屋田万太夫がいたり、この地に写真館を開業した現在の松崎町出身の鈴木真一などがいました。
 

蓮杖たちが住んでいた弁天通り

蓮杖たちが住んでいた弁天通り


 

蓮杖が店を開けて少しして、「居留地」にフェリーチェ・ベアトが写真スタジオを開きます。
彼のスタジオはその後シュティルフリート、ファルサーリの手に移ってゆきますが、西の蓮杖のスタジオ、東のベアトのスタジオという、国際的な写真業界が活況を呈すことになります。
 

「下田人の冒険心」
 

二つの「下田長屋」と関係した人々の足跡をたどるために横濱に向かう前日、ひとり机の上で何気なく、「経験」という単語を英語(experience)とラテン語(experientia)で意味を調べてみた。
そうすると、ラテン語にあって、英語にない意味がひとつあった。

それは「冒険」という意味であった。

古人は知っていたのである。「経験」とは「冒険」と同義語であることを。

お吉や鶴松、蓮杖は震災を経験している。
その悲惨さも経験したことであろう。
混乱の中から抜け出そうと焦り、格闘する姿があった。
そして自ら何かを求めて、あるいは生き抜くために下田を離れる決意をした。
新天地の江戸や横濱は、これから経験するであろう冒険が待ち受けた場所でもあったのである。

彼らは、横濱で暮らしたが、その後横濱を離れる。
造船の技術を新たに身に着けた鶴松、当時流行していた「唐人髷(まげ)」の技をもったお吉は再び下田に戻るのである。
遡上する鮭のごとく、生まれ故郷に前戻るその姿こそ誇り高くあったのではないか?

「インバウンドだけじゃない。アウトバウンドも必要」
下田の町を活性化しようと、人は観光客の集客、招致(インバウンド)を謳う。
内に呼び込む姿勢だけでは町が有機的に生きているとは言えないのだ。
そこに住む人間が外を目指す外への指向性(アウトバウンド)も同時に動いているのが現実である。

横濱は、お吉も蓮杖も生きていた町。横濱の町を作った人の中には下田人がいたのであり、下田は横濱の兄貴のような存在であった。
そういう意味で両社は兄弟のような血縁を持つのである。

具体的に、下田をピアールするなら、先ず横濱をおいてほかにはあるまい。

それには、下田人も横濱のことを知り、訪れることである。
そこから、新たなインバウンドが下田に生まれる。
それが下田の新しい「冒険」であり「経験」となるはずである。

事態は、じっとしていては変化がないものである。重い腰を上げてこそ、事態は動く。

さぁー、「なんでも見てやろう」精神が生かされる時が来ているぞ。

コメント一覧

  1. 良く調べましたね。この為に横浜へ行ってたんだ。前田家も横浜と無縁ではありませんので、色々知りたいです。

  2. 横浜の港は北を向いているので、関内東側が居留地、西側が日本人居住区です。よく間違えられます。

  3. 斎藤先生。コメントありがとうございます。そうでしたか、以後気を付けます。これからも厳しくご指導ください。よろしくお願いします。岩﨑

  4. 恵美さん、コメントありがとうございます。「前田橋」のこと聞いていますよ。また伺いますのでよろしくです。野人

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。