第15話「ほらっ、軍楽隊が行くよ」

幕末、日本に上陸した軍楽隊とともに雪崩れ込んできた音の響き。
それは、日本人にとって耳の門戸開放となった。
我々現代日本人のよく知るあの曲も演奏されていた!!!

「外来文化の洗礼―音楽」

先の大戦後、日本は未曽有の混乱の中にあり、進駐軍のアメリカ軍は老若男女に自らの文化を浸透させた。
「ジャズ」は人々の心を捉えたが、ジャズの衝撃以上の外来音楽の洗礼は、幕末の日本、下田でも起こったのである。
 先ず、日本に初めて洋式の楽器演奏が行われたのは長崎においてです。
時は、弘化元年(1844年)、オランダの「コープス使節団」がオランダ国王の親書を携え上陸、国歌というべき「ネーデルランドの血」、それにモーツアルトが変奏曲K.25にも用いた「ウィルヘルムス」を演奏しました。
 また1842年には、メキシコに到着した日本人漂流民がメキシコの楽団を見聞した記録が残されています。
 
「ペリー上陸の象徴、『ヤンキー・ドゥードゥル』」。
 弘化3年(1846年)アメリカの「ビッドル遠征隊」が浦賀にやってきますが、何といっても1853年のペリー艦隊の来航が日本において洋楽の衝撃的なデビューでした。
 記録によれば、演奏会としては、久里浜に上陸する数日前の日曜日に艦上にて、低弦楽器で伴奏する賛美歌を演奏し日曜礼拝を行ったとあります。
 米旗艦「サスケハナ号」に乗り込んでいた軍楽隊は、大太鼓1名、小太鼓3名、大ラッパ2名、小ラッパ2名、横笛2名、縦笛2名、シンバル1名の計13名で編成されていました。
演奏曲目の一例を挙げれば、親書受け渡し式の後に、「ヤンキー・ドゥードゥル」を演奏しましたが、これは我々日本人には特に耳馴染みなあの「♪アルプス1万尺、こやりのう~えで・・・」という曲です。
これを歌ではなく器楽曲として演奏しました。
「アルプス1万尺」を聴いた日本人。
この初めての曲に日本人が驚いたのはいうに及びませんが、どちらかというと鼓笛隊の演奏する太鼓の音なんかに耳を熱心に傾けていました。
太鼓の音色は、日本人に親しみがあったのかもしれません。
 嘉永7年(1854年)、第2回目の来航で日米和親条約締結が今の横浜の関内で行われ、鼓笛隊1隊、軍楽隊2隊、それぞれ13名で演奏が行われました。
この時の日本側やアメリカ側の絵師がその光景や楽器について詳しく後世に残しています。
2回目なので、演奏者も観客たる日本人も少し余裕が出たのでしょうか、「さて、また聴ける」と演奏を楽しみしていた大名もいたとか・・・。
余談になりますが、ペリー一行の中のひとりにヴィルヘルム・ハイネ(1827年~1885年)という画家がいたことにも少し触れておきましょう。
彼は、あのリヒャルト・ワーグナー(1813年~1883年)の親友で、ふたりしてドレスデン蜂起に参画し、蜂起が失敗、ワーグナーはチューリッヒへ敗走し(「ニーベルングの指輪」「トリスタンとイゾルデ」を作った時期で)、ハイネはアメリカに逃れました。
ハイネはアメリカという新大陸で、ペリーに認められ米国のお抱え絵師となりました。
ペリーとワーグナーがハイネを介して赤く細い糸で結びついてきます。

「下田音はじめ」
 日米和親条約締結後、ペリーは下田にやってくることになるのですが、現在ペリー艦隊上陸記念碑のある場所から軍楽隊は行進をし了仙寺に到着します。
ただその時に、どんな演奏をしたかは定かではありません。
記録では、30人近い演奏者がいたとされ、恐らく国歌の代わりとなっていた「♪ヘイル・コロンビア」、今日の国歌「♪星条旗」、「♪埴生の宿」で知られている「♪ホーム・スイート・ホーム」、それに内容が不明の「♪ベン・ボルト」が演奏されたと思われます。
 
了仙寺
 
条約に先立ち、「ミンストレル・ショー」(minstrel show)という白人が顔を黒く塗り黒人の真似をした、踊りと音楽による風刺大衆演芸が黒船の艦上で催され、このとき初めて下田で西洋の大衆音楽が一部の日本人に披露されました。
 もう一つ、下田で記録に残っているものでは、玉泉寺にアメリカ人とロシア人の墓が残っていていることからもわかるように、外国人の葬式が行われていたことです。
葬送の式でラッパ1名、小太鼓1名の楽器演奏者が行進している絵があります。
華やかな軍楽隊の行進とは違い、たった二種類の楽器で同僚を見送ったということに、音楽が悲しみや郷愁というものも表そうとするのだ、と感慨深くなります。むしろ曲は明るい音色だったかもしれません。
そうなるとより一層船員達に万感胸に迫るものがあったかもしれません。
通りに出てこの光景を見た日本人にどのようなものが去来したでしょうか・・・。
 
軍楽隊 お墓
 
 1853年9月、エフィム・プチャーチン(1803年~1883年)の軍楽隊は長崎に上陸し演奏を行いました。
その軍楽隊は、鼓笛4名、ホルン2名、ボンバルドン2名、ラッシアンビューグル4名で構成されていました。
その後、軍楽隊は1954年に下田に姿を現します。
ここで、プチャーチン一行は安政の大地震に遭遇します。
一端、彼らは下田と西伊豆の戸田に避難しますが、船は駿河湾に没します。
この災難の折にどうやら、上記のラッシアンビューグルを日本に置いてゆくことになりました。
その錆付いた実物は、下田開国博物館で観ることができます。
ビューグルとは、かつて日本軍が使用していたあの「起床ラッパ」「突撃ラッパ」に似たものです。
長崎奉行所でロシアの軍楽隊が演奏したのは当時のロシアの国歌、チャイコフスキーの「1812年」の最後の部分の曲でした。
「善悪の彼岸―音楽」
 どのような形であれ、異文化が「上から」(特権階級)だけでなく、「下から」(一般大衆)の浸透があると、善悪の価値観を離れて独特の個性を放つようである。
一例を挙げれば、♪「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひーた・・・」のあの曲は、合衆国では賛美歌であったものを南北戦争当時に軍歌にアレンジしたものである。
この歌を我々は戦争と関係する歌とは露知らず子供と一緒に合唱している。
 日本の開国の雰囲気というものは、この軍楽隊に象徴されるのかもしれない。
音楽は、善悪の彼岸に咲いた一輪の可憐な華なのである。

コメントする

岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。