第23話~士官の娘~ 「フェリーチェ・ベアトが残したもの」

下田でお吉さんの顔といえばこの写真ですね。この写真には隠された秘密があります。
この女性はお吉さんではありません。
 

「15歳、16歳の士官の娘というタイトルの写真」

「15歳、16歳の士官の娘というタイトルの写真」


 

「フェリーチェ・ベアトの来日」

下田でお吉さんと思われている写真がお吉さんではないとすれば、一体この女性は誰でしょうか?
 
そこで先ず、1863年に日本を訪れた、イタリア人の血をひくイギリス人、フェリーチェ・ベアトから話を始めましょう。
 
ベアトは、当時イギリス領だったギリシアのコルフ島で生まれ(1834年)、若くして海外生活に身を置き、19歳の時に会社を設立し写真館を開く。
クリミア戦争、インドのセポイの乱を取材、続き中国の第二次アヘン戦争の動乱の取材を経て、1863年の春ごろに横濱の地を踏みます(29歳)。
 
日本の写真史にとってベアトが横濱居留地で写真スタジオを開設した出来事は多方面に大きな影響を与えています。
 
 

「フェリーチェ・ベアトの肖像写真」

「フェリーチェ・ベアトの肖像写真」

 

「ベアトのスタジオ」

ベアトは来日して、同僚のワーグマンと居留地24番にスタジオを開設しますが、1866年の豚屋火事でスタジオのネガを失ってしまいます。
そこで1872年に、居留地17番、今の関内のメルパルクホール、当時のグランド・ホテルの隣にスタジオを構えました(38歳)。
1870年から彼は多種業の仕事を手掛け始め、1873年には駐日ギリシア総領事に任命されます。
1877年1月23日写真事業を売りに出し、スタジオを閉鎖します(43歳)。
2月にはシュティルフリートに写真やネガを売却しています。
 
結局、1884年の銀相場での失敗で無一文になり、11月29日に日本を離れることになります(50歳)。
 

「世界が知っていた顔」

ベアトは横濱のスタジオでどんな写真を撮っていたのでしょうか?
「横濱写真」という当時流行した、観光用の写真や人物ポートレートを、外国人旅行客や日本に関心を持つ読者に提供していました。
蒔絵の装丁を施したものがあり、かなり高価なものだったようです。
この写真もそのような写真のひとつです。
 
1892年刊行のアルバート・トレーシーが書いた「案内人抜きの日本全国漫遊記」という本にこの写真が使われています。
「イギリス人と日本人の混血の少女」と解説されていて、この写真の人物が当時においては外国人と日本人のハーフであると認識されていたようです。
また、1902年のドイツ人人類学者C.H.シュトラッツの「生活と芸術にあらわれた日本人のからだ」では、この写真の人物がイタリア人と日本人の混血であると人類学的見地から紹介され写真が添付されています。
いずれにしても、当時では売れっ子のモデルであったことには違いありません。
 

「モデルの誕生」

この写真は「士官の娘」というタイトルとともに世界に知られることになりました。
そして彼女の姿を収めたところこそ他ならぬベアトのスタジオだったのです。
ただ、スタジオはシュティルフリートの手に移り、その後写真は焼き回しされ、販売はシュティルフリート、ファルサリ、日下部金幣、玉村康三郎などにより手掛けられました。
ではこの写真を最初に撮ったのは誰なのでしょうか?
恐らくシュティルフリートだと思われます。
この女性をモデルとして雇ったことは、ベアトとシュティルフリートの信頼関係の強さであると言えるでしょう。
 

「ベアトの娘?」

果たして彼女は誰なのでしょうか?
 
ベアトは1863年来日し1884年離日します。
21年間もの間日本にいたことになります。
その間日本人女性と関係を持ったことも大いに考えられることです。
 
ここで、この写真は若いころの写真と少し年をとった写真の2枚が知られています。
「古写真研究こぼれ話」(一)(二)という本の中で、著者の高橋信一氏は、若いころの写真は15歳、16歳より年上の年齢ではなく、もう一枚は20歳前後であるとの見方をされています。
また高橋氏はこの娘がベアトの娘ではないかとも見ておられます。
 

「20歳の士官の娘の写真」

「20歳の士官の娘の写真」

 
この点に関しては首肯するところがあります。
この写真が撮られたのが1887年から1897年頃と断定されることから考えて、前述の娘の年齢を考慮に入れると、娘は1877年以降に誕生したことになります。
1877年に最低誕生したとして、彼女の年齢は、1897年では20歳、1887年では10歳ということになります。
ベアトが来日して、娘が誕生したとしたら、その間14年の歳月が流れていると考えられます。
 
もう一つの重要な観点は、ベアトが1877年にスタジオを閉鎖し、写真業界から手を引いたことです。
何故日本ではもうカメラを持たなくなったのか?
彼自身、離日してから、エジプトを取材したり、晩年には、旧ビルマ、現在のミャンマーに居を構えて、写真館を開設しカメラを持つこともありました。
決して写真業からスッパリ手をひいてしまったのではありません。
ただ、日本では完全に身を引いてしまった。
1877年を娘の誕生と考えると、このベアトの行動が意味あるように思えてくるのです。
彼は、世界初の報道カメラマンでした。
インドの動乱では、死体を掘り返してまで、戦死した兵士の姿を執拗に追いかけたのでした。
日本でも、磔になったり、斬首された人間の写真の生々しい姿を残しています。
そうなのです、彼は悲惨な世界をあまりにも多く目撃していて、自己の中に悲痛な叫びにも似た過去を持っていたのです。
 
娘が生まれた時に、この忌まわしい過去を清算したかったのではないでしょうか?
 
平和な生活にあって写真は払拭したい過去だったのではないでしょうか?
 
その苦痛の感情を生み出したものこそ写真であったのでは?
 
そう考えると、納得いくように思うのです、彼の行動は・・・。
さらに、ベアトは、1909年75歳でイタリアのフィレンツェにおいて終焉を迎えます。
世界を駆け巡り、最晩年の1年か2年をイタリアで終えるというのは、彼がやっと終の棲家を見つけたことであったように思えてなりません。
 

「新たな物語」

どうやら強引な結論を出したようですけど、この直観にも似た感覚を私は大切にしたいです。
案外大きなものを掘り当てる可能性があるので・・・。
 
さて、お吉さんのことを少し考えると、「幕末お吉研究会」でお馴染みの杉本武氏が詳らかにしつつある、人間お吉は、大きな業績になるでしょう。
 
今2つの道が未知の地平に開かれています。
顔はわからない生身のお吉と顔はわかっているが素性が不明の「士官の娘」という、対照的な、そして写真にまつわる皮肉な展開となっているのです。
 
この事象に触れる人、創作活動をしている人に霊感を与える時期に来ているように思います。
この2つの道が、歪曲で曇らず、豊かな想像力に富む世界になることを切に願っています。
 
お吉、娘、そしてベアトの供養になれば・・・。
 
(ベアトに関しては、1998年オランダで撮られた映画「Felice…Felice…」というのがあります。事実関係は別として、感慨深い作品になっています。)

コメント一覧

  1. 2枚目の女性の写真の目の力強さが、何を物語っているのか、何を訴えているのか、いろいろ想像されますね。

    また、実際この女性がどのような方だったのか、非常に興味が湧いてきますね。

    時を超えた女性の写真と言えば、クリストファー・リーブ主演の静かなSF映画「ある日どこかで」という作品があるのですが、

    原作者は とある劇場にかけられていた古い時代の女優さんのポスターを見て、そこから時を超えた不思議な恋愛SF小説を思いつかれたそうです。

    映画中でも、主人公がはるか昔の女性の写真をホテルの歴史資料室で見て恋に落ちる場面ンは情感のこもった大切なシーンでした。

    宝塚ファンには、天海祐希さん・麻乃佳世さん主演の公演でおなじみの作品だそうです。

  2. 中島君、コメントありがとうございます。どうも創作意欲がわいてくる話ですね。お吉さんはだれがやったらいいのかなんていう話もよくします。杉本武さんなんかは天海祐希がいいのではとおっしゃっていました。今後も、士官の娘、F.ベアトを追い続けたいと思います。野人

  3. この写真が、お吉と思っていました。
    写真は、左側からの強い照明が、目に入って、立体的ライティングがされていますね。富士額は、血液型がBの方に多いと聞いたことがあります。
    上目づかいに何を見ているのか、、、

    色々な人間交差点、その繋がりの秘密を解いていく、面白く感じます。
    それにしても、お吉の写真が別人とは、顔のイメージが白紙になりました(笑)
    いろいろ調べられてすごいです。
    さすがです。

  4. 堀田さん、コメントありがとうございます。ここからまた新たな物語が始まりそうです。顔の分からない人間お吉と素性の分からない士官の娘の・・・。この娘の背後の人間関係、調べたくなりました。ベアトを掘り下げたいと思います。これからもよろしくです。野人

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岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。