第37話「地域・人・世界を見つめて~高馬の傾城塚~」
高馬の景観から
下田市を流れる稲生沢川。
その川沿いの道を歩くと、人知れずお地蔵さまがひっそりと建っているのを見かけます。
気にとめなければ忘れ去られそうな、しかしどこか心に残る風景です。
小説などで知られている、唐人お吉はこの川で入水自殺したと描かれました。
今でも、お吉ヶ淵では慰霊祭が営まれ、たいていの人がここがお吉さんの終焉の場所と思い込んでいます。
ところが、よく調べてみると、この地点は亡くなる前に最後にお吉さんの姿が見かけられたところで、川の増水で足をとられ流されたのはこれより上流で、その亡骸が上がったのが、まさにこの高馬の「傾城塚」前の地点なのです。
「傾城塚」には、仏教の禅宗の仏塔「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)、二体の石仏、それに二つの墓石と思われるものがあり、総称してここを「傾城塚」であることを示し、そのうち女性の姿をした石仏が、西山助蔵をはじめ近隣の有志の手によって建立された、お吉さんを弔う石仏だと確認されました。
私は、幸運にもそのほとりの高台の家に住んでいて、毎朝、その小さなお像にお参りしております。
この場所には、その昔、船着き場があり、近くのお地蔵さまの礎石に「水上安全」と刻まれたものがあり、水難事故が多かったことが分かります。
また、我が家の眼下には、その昔厩があったと言われ、この地点に旧下田街道が通っていることもあり、ひと・ものの集散した場所であったことがわかってきました。
我が家の前を通る旧下田街道は非常に狭く、あちこちにお地蔵さまや墓石が見られます。
名も知れない人が道中倒れ、供養されていたことが分かります。
西中・本郷など周辺地域は川を中心に田園風景が広がっていました。
その中に、高馬稲荷があり、竹麻神社があり、そして点在するお地蔵さまがあるという景色でした。
黒船が来て、開港した下田。
その表舞台に登場した下田の人間が、この小さな地域と結びついています。
郷土愛を育むには最適な教材です。
下田を離れるもの、下田にとどまるもの、人の動きは様々です。
そんな動きの中で、心に残る下田が育つきっかけになるのではないでしょうか。
家庭で親が「傾城塚」やお吉さんや助蔵さんの話をし、学校の授業で語られることで、子供の心のうちに下田のことが意識づけられれば、「傾城塚」を語る価値は非常に高いと言わなければなりません。
言わば、石仏の授業です。
こんな地域教育があってもいいのではないでしょうか。
歴史と祈り
お吉ヶ淵がお吉さんの終焉の場所で、ハリスに使えて、身を持ち崩したという話は、あくまでも小説などの中での話です。
そう、創作物の中ではどんな話を作ろうと、クリエーターの自由があるのは当然です。
ですからそれは物語として成立します。
ところが、これを歴史上の人物の生涯の事実にしてしまったところに悲劇が生まれたのです。
お吉ヶ淵の話も下田に名所を作る意図があってできているものです。
ですので、そこにはお吉物語を作る仕掛人がいたことになります。
村松春水などの文人はそれに手を貸したわけです。
歴史的事実に脚色を施し、事実として伝えられているのです。
歴史には人間が存在し、人間が存在するところに歴史は存在します。
年号の事件、社会的な事件だけが歴史ではありません。
そこには人間の血の通った、生活や感情、五感を通してみた人の営みといったこともあるはずです。
そういう意味では、「傾城塚」の物語は、年号の記録としての歴史ではなく、人々の息遣いが感じれる歴史なのであります。
毎日朝に、この石仏にお祈りをささげています。
その背景にあるお吉さんや助蔵さんの話を知っているだけに切なさがこみ上げます。
歴史に感情を盛り込むな、とはイタリア遊学中に授業で指導教授が繰り返し言っておられた言葉ですが、人の心に届くものも実は歴史家の仕事の一つだと、この毎朝のお祈りで痛感いたしております。
では、人はなぜ祈りをささげるのでしょうか?
それは近親者のことを思い、また将来の加護を祈ることでもありましょう。
でも一番重要なことは、癒しです。
祈ることで、自分に向き合うことです。
これがまた自分を癒す効果を持っているのです。
石仏ひとつで、実をいうと、自己と対話しているのです。
個人の過去が個人の歴史であり、それを振り返ることは、自己との対話する行為です。
歴史的なものに触れるというのは、実をいうと、現在の自分との対話でもあるのです。
大げさなことに聞こえるかもしれませんが、自分の住む場所に思いを寄せ、過去を振り返るのは、現実に生きる我々人間の知恵であり、将来の自分に投げかける自然な行為です。
祈りの行為は過去を振り返ることに似ているのです。
ひとりの人間の中に、過去と将来が存在する証です。
「傾城塚」に詣でることは地域の歴史や社会を知ることでもありますし、自己を知ることでもあるのです。
下田オリジナル
古の都、京都。
昨年度のこの町で落とされた観光消費金額は1兆円を超えると言います。
化け物のような都市です。
人、人、人。
観光客を呼び込んだ成果が今問題を生み出しているようです。
病院に行くにも、観光客で一杯で、バスに乗ることもできない住民もいるようです。
この姿は、住民が望んだ観光の在り方でしょうか?
そこで下田です。
冬の下田の街中の、寂しい姿はどなたもご存知でしょう。
では、観光客が沢山いればいいのでしょうか?
京都のことを思えばそれも考えなくてはなりません。
量ではなく、質を高めて観光客を呼び込むことはできるでしょうか?
そのひとつのヒントが、下田オリジナルを発掘することです。
現在あるもの、過去にあったものを探し、活用することです。
東京や京都、大阪と同じものを下田に作っても、お客さんは来てくれません。
何故なら、下田には下田の良さがあるから、大都市にはないものがあるから、下田にお客さんが来るのです。
お吉祭りも黒船祭りも、一回限りのイベントではなく、継続したものになっているのも、この地元ならではのものだからです。
「傾城塚」やお吉さんがやっていた「安直楼」は、そんな下田オリジナルのひとつの名所です。
お吉ヶ淵でお吉祭りをやり下田に人が来るようになったのも、この下田オリジナルを生み出したからです。
昨年暮れ、我々「傾城塚」を見守る有志を中心にして、お吉さんの誕生慰霊祭を「傾城塚」で行いました。
予想以上に、近隣の人のみならず、関心を持つ人にお集まりいただきました。
誕生慰霊祭の後、ちょっしたサプライズがありました。
以前に、お吉さんの誕生の地、知多半島出身で、静岡県在住の方が、ここ「傾城塚」に参拝されました。
そして、その方が、今度は、お吉さんの生家の近くの砂浜の砂をもって参拝され、奉納されました。
砂は一部、すぐ下の川岸と川にも撒いてゆかれました。
この方は、下田に来ると、お吉さんのことが頭から離れなくなったそうです。
このような行動は、われわれよりお吉さんを身近に感じられたからなのではないでしょうか。
まさに愛を感じます。
こういうつながりが、人を呼び込むきっかけになるのではないでしょうか。
「傾城塚」の石仏ひとつで、下田の町・人・世界の輪が広がれば幸いです。
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