LINEで送る

第9話 後編紫陽花繚乱~異国で咲いた華たち~

紫陽花繚乱~異国で咲いた華たち~(後編)

シーボルトとハリス。ヒュースケンの死とともにもたらされた交流

ショパンとシーボルトは直接対顔した出会いではありませんでしたが、シーボルトとタウンゼント・ハリス(1804~1878)はお互いの眼を見て出会い、ともに時間と空間を共有した仲でした。
 
あじさい 

1857年11月23日、ハリスは、日米修好通商条約を成立させるための出府で下田から江戸に向かい、11月30日に江戸に到着します(下田から江戸へ行くには1週間かかるのです)。
 

1858年6月17日に一度下田に帰りますが、7月29日には神奈川で条約の締結にいたります。
 

彼は1859年1月19日にはアメリカ合衆国公使に昇任し、6月2日下田が閉港され、7月7日に江戸の善福寺がアメリカ合衆国公使公館となります。

この一連のハリスの行動にヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン(1832~1861)が補佐していくわけですが、1860年12月の運命の日を迎えます。
この年の夏ぐらいから彼はプロシアの折衝役・通訳などもこなしていて多忙を極めていました。
事件当日は夜8時までプロシア側の人間と食事をして帰途につきますが、途中、清河八郎(1830~1863)が首謀者ではないかといわれた攘夷派薩摩藩士がヒュースケンを斬殺します(のちにこの清河も殺害されます)。
幕府側は遺体検分をし、犯人捜査を確約しますが下手人を挙げることはできません。
葬儀は幕府側要人・各国領事などの要人とオランダ軍やプロシアの人間を中心に盛大に行われ、洋式と和式の二つの葬儀が執り行われました。
葬儀の翌日に危機感を抱いた各国のリーダーが公館を横浜に移すようにハリスに迫りますが、ハリスは事件が個人的な恨みで外交問題ではないとして、この案に反対し江戸にとどまりました。

一方、シーボルトは、長男ゲオルク・グスタフ・アレキサンダー・フォン・シーボルト(1846~1911)を連れて、1859年7月6日長崎に入ります。
シーボルトは追放令が出てから、一度オランダ軍医として来日しますが、これがその後2度目の来日で最後の来日となります。
1860年のヒュースケン事件後、横浜から江戸に出て幕府の外交顧問に就き、1861年5月22日にはヒュースケンの墓へ墓参しています。
オランダ人であったヒュースケンをシーボルトはオランダという国で結ばれている以上に親近感を抱いていたのではないかと思わずにいられません。
どこかシーボルト自身がヒュースケンとオーバーラップする部分があるように思われるのです。
両者が日本の女性を愛し、親日家であったことからも共感する感情があったのではないかと思うのです。
シーボルトはこれ以降、日記(長男アレキサンダー)に記されているだけでハリスと9回も会い、書簡も取り交わしました。
翌年1862年4月30日シーボルトは長男を日本に置き帰国し、5月10日にはハリスが日本を離れることになります。
 

下田におけるハリスとシーボルト

 
ヒュースケン事件を境に、井伊大老暗殺事件、イギリス公使館襲撃事件など立て続けに大きな事件が発生し、日本での外国人の情報収集は盛んに行われ交流が促されました。
異国の地で祖国を背負いつつも人的交流は個人的なものまで深く根ざしたものだったでしょう。
博物学者であるシーボルトは日本の自然を愛し、ハリスは下田の自然をことのほか気に入っていたこともあり、何か二人に共通する志向性みたいなものも見えるようです。
シーボルトとハリスの交流が精神的に固い絆で結ばれていたことは、次のようなシーボルトの自著でのハリスの言葉の引用にも表れています。

「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」

 
ハリス 碑
 

この言葉は、現在の下田公園にある開国記念碑に刻まれています。
偶然にも、この記念碑は公園の紫陽花群生地の下に位置していて、開花期には記念碑を飾るように紫陽花が咲き乱れます。
 

紫陽花が咲くころは、日本は雨の季節。
ショパンの「♪雨だれ」という曲がよく似合う季節です。
それに、紫陽花を西洋世界に持ち込んだのはほかならぬシーボルトでした(余談ですが、石原裕次郎 1934~1987 の命日は「紫陽花忌」と呼ばれます)。
ショパン、シーボルト、ヒュースケン、ハリスに思いをはせて公園を散策するのも趣のあるものになるのではないでしょうか。

私にとって、元N響コントラバス奏者の檜山薫先生、それに上記の4人の外国人は思い出深い人々です。
今日は一日の〆に、サッチモ(ルイ・アームストロング 1901-1971)の「♪What a wonderful world」でも聴きたい気分です・・・。
 

最後に、友にこの一首を捧げる。
 

「雨だれの紫響くあぢさゐ花 待ちたる友の衣な濡らしそ」(野人)
 
 
 

コメントする

岩崎 努

京都出身、2013年に念願の下田移住を果たす。
普段は小学生の子供たちの宿題をみる野人塾の傍ら興味の尽きない歴史分野、下田の歴史を調査中。
周りからは「野人」と呼ばれている。
酒好き、読書好き、ジャズを中心に音楽をこよなく愛す。